Sweet-pea’s diaryー大人になった先天性心疾患のブログー

大人になった先天性心疾患を持つ私が、あの頃(16~20歳頃)見つけたかったブログを書いています。どなたかの参考になりますように。PC版カテゴリのはじめにからご覧ください♬

私と声⑳〜大切な何か〜

私と声。

 

手術やリハビリを受ける前は、声の事で困らない日はないくらい、日常の生活は支障だらけでした。

 

私の声は、今も、出し易い日もあれば、出し難い日もあります。でも、出し難い日でも、それなりに、発声の仕方でコントロール出来るようになりました。そして、普通の人には当たり前の感覚かもしれませんが、声を造ろうと意識せずとも、無意識に会話を楽しむことが出来る様になりました。喉に力を入れすぎないお腹からの発声は、今でも、時々リハビリがてら練習しています。一生無理だと思っていた歌も、あの頃に比べて、ずいぶん色々な曲を歌える様になりました。歌を歌うのはいいリハビリです。

 

リハビリの可能性は無限大で。進行性の疾患などもあるので簡単に“無限大”と言っていいのか分かりませんが、でも、希望はリハビリの中に必ずあります。

そう、私は信じています。

 

声の事をテーマに書き始めて、これは、長くなるだろうな。と思って1つずつ書いてきました。今回の記事で20話目、本当に長くなりました。それだけ、私の中で大きな出来事だったのだと思います。私は、リハビリで声が出せる様になったその日に、1つだけ、自分の心に誓った事がありました。

 

それは、

 

『これから、どんなに声が出し易くなって生活が楽になっていったとしても、

声が出なくて不自由だった6年間の日々の事を。

当たり前の事が当たり前に出来ないその感覚を。

一生忘れない様にしよう。』

 

という事です。

 

この経験から何を学んだのか。

上手く文章に出来ませんが、

この経験が全てで。

 

当たり前の事が出来なくなるという事。

その人にしか分からない、分かり得ない困り事や思いがあると言う事。

それを100%言葉で説明するのは難しいと言う事。

 

声が出なかった日々を忘れない様にすると言う事は、そういった大切な“何か”を大事に持ち続ける事なのかもしれません。そして、目の前にいる誰かに、そっと寄り添える優しさを、持ち続けられたらいいなと思います。

 

今回、こうして忘れたく無いその日々を、記録に残せて良かったです。

最後まで読んでくださった皆様、ありがとうございました。

 

〜『私と声』まとめ〜

私と声①

私と声②~手術前夜~

私と声③~声帯が麻痺した日~

私と声④~食事を再開~

私と声⑤〜退院日の不安〜

私と声⑥ 〜担任の先生〜

私と声⑦ 〜優しさか好奇心か〜

私と声⑧~陰口と優しい存在~

私と声⑨~音楽の力~

本人にしか分からない毎日の困り事〜私と声⑩〜

病気のイメージ 〜私と声⑪〜

医師からの説明(反回神経麻痺・手術)〜私と声⑫〜

私と声⑬~手術の説明を聞いて~

私と声⑭〜入院前夜とにかく嬉しかった事〜

私と声 ⑮ 〜(BIOPEX)手術前夜〜

私と声⑯ 〜手術当日の心持ち〜

私と声⑰ 〜良くなりたい・術後の外来〜

私と声⑱〜リハビリ〜

私と声⑲〜声の改善~

 

おしまい。

ネットフリックス・芥川龍之介鼻

ついに加入してしまいました。Netflix

最近巷で話題の、韓国ドラマ『愛の不時着』が見たくて。今まで、韓国ドラマには足を踏み入れた事がなかった私ですが、テレビで芸人さんが、「私も見た!」「あいつも見たらしい!」って話をしているのを何度も聞いている内に、単純接触効果でしょうか(笑)。全然興味が無かった韓国ドラマに、どんどん興味が湧いてきてしまいました。愛の不時着って、Netflixしか見れないんですね。

 

1話、2話と見ていって・・。確かに面白いけど、、どっぷりハマる程ではなくて。でも、続きも気になるし、毎日子供が寝た後に1話ずつ見ていって、6話目まで来た昨日。

 

はい!6話目で落ちました。愛の不時着沼。

どっぷりとハマりました♡

6話目で、主人公がバイクに乗るアクションシーンがあるのですが、そのシーンがカッコイイんです。主人公の男女2人にわたしの心は釘付けです。そして7話目では、さらに素敵な胸キュンシーンが・・・。うっとり間違いなしです。

 

もし、見始めた方は、6話目7話目まで見続ける事をお勧めします。

 

今日は、特別支援総合センターの面談に行って息子の就学の進路を決めました。いつかブログに書けたら書きます。

 

最近読んだ本。三島由紀夫の『夏子の冒険』。とても面白かったので、三島作品をもう1冊買ってみようと本屋に行ったら、何故だか間違えて芥川龍之介の本を買ってしまいました。でも、短編が多いから結構読み易くて面白くて、今読み終わったのは、『羅生門』『蜘蛛の糸』『鼻』。『鼻』という作品は、身体的なコンプレックスを抱えた僧のお話なのですが、何故だか共感する所がすごく多くて興味深かったです。主人公が、“自分で鼻を気にしているということを人に知られるのが嫌だった”とか、“日常の談話の中に鼻という語が出て来るのを何よりも恐れていた”とか。鏡の前にたって、それが少しでも目立たない方法を考えたりする所とか、絶えず人の鼻ばかりを観察してしまう所とか。でも結局それが無くなれば無くなったで落ち着かなくて。もどってくるとある種晴れ晴れした気持ちになった。という所とか。鼻を、手術の傷痕とか、病気と置き換えると、なんだか共感してしましました。

 

他人の綺麗なデコルテには目が行っちゃうし、羨ましいなとも思うし、でも、手術の傷痕はもう自分の一部だから、無くなったら無くなったで少し寂しいかもしれないし、変な感じだろうし。とか、色々考えながら読みました。

 

おしまい。

私と声⑲〜声の改善~

 

リハビリ2日目 

 ST室に入った私は、STの先生と向かい合わせに座ります。2日目の最初は、前回の評価結果から、なぜ、声帯の構造事態は良くなったのに、声の自覚的な出し辛さや、喉の違和感、長い時間話続けられないなどの症状が出てしまっているのか。STさんか説明してくれました。

 

過緊張性発声

 私は、反回神経麻痺になり6年もの間、片方の声帯が麻痺したそのままで日常生活を過ごしてきました。それでも、声を出さないことには、色々な場面に支障が出ます。すると、身体は自然に代償動作という働きが出現します。代償動作とは、失ったある部分の機能を、他の残存している機能で補ってあげる動作のことです。私の場合は、動かない方の声帯をカバーするために、普通は働かなくて良いはずの喉周囲の筋肉達が、その機能を補うように働き、声を出していたようです。もちろん無意識的にです。そして、6年もの間に、それがすっかり癖となり、身体に染みついてしまい、声帯の手術をした後も、その正常動作から逸脱した発声方法で声を出していたのです。喉周囲の筋肉をキッと締めて、喉を固くして話していた私。話す際の喉の違和感や、持久性のなさはそのせいではないか。という見解でした。

 

リハビリプログラム

 頭の中で理論が分かっても、身体に染みついた習慣を変えるには、練習して身体で正しい発声方法を再学習するのみです。私の言語リハビリは、いかに喉に余計な力を入れずにお腹から声を出すか。という所に的を絞って行われました。リハビリというより、ボイストレーニング、“ボイトレ”と言ったほうがイメージし易いかもしれません。人前で、大きな口で、大きな声を出すことは、少し抵抗があったし恥ずかしさもありました。しかも、その頃のST室は、防音では無いし、隣の部屋や、廊下に声が丸聞こえなんです(笑)。でも、良くなりたい気持ちは誰より負けなかった私。まずは、羞恥心を捨てること決め、先生の言った通りに大声を響かせました。まだ覚えています。最初に羞恥心を捨てて大声で叫んだ一言。

 

「青いう〜み〜〜〜」

 

青い海。なんで青い海?母音が多いからかな。一生忘れないフレーズです。

 

リハビリの内容は、

① 最初は口を閉じて「ンーーー」というハミングから初めて、

② ハミングから口を開いて、「あーーーーー」という発声にします。ハミングから始めると、喉に余計な力を入れずに発声できるみたい。

③ そこからの『青い海』。とか、色々指定された文章をゆっくりとスローモーションでなるべく部屋中に響き渡るように発声させます。

④ 喉の力を抜いたお腹からの発声に慣れて来てから、1ヶ月後くらいかな。。文章を読む練習に移りました。

 

ゴール

 リハビリは1ヶ月に1、2回。あとは自主トレ。3ヶ月ほどで、私の声は変化し、日常会話ならば、声を出すことをほとんど意識せずとも出せるようになって、文章も朗読できるようになり、10分間の症例報告の発表原稿も、途中で喉が痛くなったり、声が出なくなったりすることなく、安定して話せるようになりました!

 

これは、文章に出来ないほどの感動です。

もう一生無理だと思っていた声が、6年越しで、また自分でコントロール出来る様になった♡

元の声に戻ったわけじゃ無いけど、とても嬉しい出来事でした。

腕利きのSTさんと、自分の努力に・・・、感謝です。

 

その辺り、もう少し書きたい事があるので、つづきます。

読んでくださっている方、何かの参考になれば幸いです。

 

続く。

 

私と声⑱〜リハビリ〜

少し間が空きました。続きを書いていきます。

ここまで書いた事を、少し振り返ってみます。

 

13歳、人工血管置換術の手術の際に左反回神経を切断した私は、左反回神経麻痺となり、左の声帯が動かなくなりました。それでも、なんとか6年間、片方の声帯と、それを補う喉の筋肉の代償動作で、学生生活を営んでいきました。小さなかすれ声は、次第に声らしくなってきて、理学療法士の専門学校に入学する頃には、日常生活に大きな支障がないくらいまでに改善していました。それでも、声の出し辛さは残っていて。患者さんを相手に運動等を指導する理学療法になる為に、19歳の冬、私は、リン酸骨カルシウムペースト注入術(BIOPEX)という声帯機能向上の為の手術を受けました。手術は大成功。声を出す際に障害となる、声帯の左右の隙間はなくなりました。しかし、自覚的な声の出し辛さや、長時間聞き取り易い声で話し続ける事はまだ出来なくて・・・。

 

言語療法・リハビリ初回

 

 あと少し。もう少しだけ、良くなりたい。という願いを込めて、私は手術した病院で、リハビリを受ける事になりました。言語聴覚士さん(STさん)による言語療法です。私の通っていた専門学校もリハビリのセラピストを目指す学校ですが、理学療法作業療法学科のみで、言語療法学科ありませんでした。なので、未知の領域に足を踏み入れる感じでした。いったい、どんな事をされるのか、どれくらいの効果があるのか、全くもって想像出来ませんでした。

 

名前を呼ばれ、言語療法室に入ると、そこに待ち受けていたのは、ショートカットの柔らかい雰囲気をまとった女性のSTさんでした。お互いに簡単に挨拶を済ませます。そしてまずは、“私が今何に困っていて、何が出来るようになりたいのか” ということをSTさんに聞いてもらいました。

 

「声帯の手術をして、確かに声は出しやすくなりました。声の質もしっかりしたと思います。」

「でも、声を出す際の違和感は残っていて、まだ良い声を出そうと常に意識していなければならないし、長時間話していたり、長い文章なんかを読もうとすると、途中で喉が詰まるような、痛くなるような感じになって、徐々に声が出せなくなってしまいます。」

「私がリハビリに望む事は、もっと無意識に声が出せるようになりたいのと、長い文章も、最後まで声がかれずに、聞き取り易い安定した声で、読めるようになりたいです。」

 

「あの・・・、最終的には、これが全部読めるくらいになりたいんです。」

 

と私は少し遠慮がちに1枚の用紙を先生に差し出しました。

それは、実習の際に使う症例報告発表のレジュメと原稿(個人情報の記載は全て抜いてあります)。A4の用紙にびっしりと文字が書かれていて、病院実習では大勢の人の前で10分ほどかけて、1人で話し続けなければなりません。話し終わった後には、質疑応答があるので、さらにその余力も残しておかなければなりません。それは私のその時点で一番難しい課題で、一番自信が持てない課題でした。

でも、それが出来たら、怖いものなし。

 

『分かりました。では、今日は初回なので、声の機能を色々と評価させていただきますね。』

 

と、リハビリの評価が始まります。初日にやった評価の内容は、、ごめんなさい。専門外だからか(笑)、詳細に覚えて無いんです。何せ、15年前のことなので。「あーーーーー」と発声して、声が何秒続くかとか。その際に、鼻から息が漏れていないか。とか、葉っぱのフレディという絵本を朗読して録音したりとか。そんな感じだったかな。

 

最後に、ベッドに両膝を立てた状態で、腹式呼吸の練習をして、初日のリハビリは終わりました。次回までに、STの先生が今日の評価結果を踏まえて、考察して、目標に向けたプログラムを立案してくれる。という流れになります。これは、リハビリの基本的な流れですね☆

 

「声がもっと無意識に楽に出せるようになる事」

「症例報告の原稿を、1枚最後まで読みきれるようになる事」

 

を目標に、私のリハビリは幕を開けました。

 

続く。

 

息子のその後・・・

前回の記事。

色々な方に読んで頂いて、それぞれがどんな事を思ったのかは分かりませんが、読んでくれただけで、なんだか元気が湧きました。そして、これは、後から思った事なのですが、こういう子育てもあるということを、知ってもらえる事はとても貴重じゃないかな・・・。

読んで下さった方、ありがとうございました!

 

その後の話を、少し書いてみます。

 

泣いた事で。

 なんだか私の気持ちがすっと落ち着きました。最初は、いい大人が人前で泣いてしまって。やってしまった・・。と思っていました。でも、その晩から私の心は不思議なほどやけに穏やで。1人で堪えていたり、皆が寝静まった後にそっと泣いたり。そういう見えない努力や忍耐みたいなモノは美しいかもしれませんが、誰かの前で泣く事って、弱さを見せられる強さがあるというか。それを見せれる事で、助けてあげたいという支援者が増えて、弱さを見せたらもうカッコつける必要はなくて。心がほぐれて、余計な力が抜けて、自然体になれて、それで心が穏やかに落ち着いたのかもしれません。

 

先生達の前で泣けて良かったなと思います。

 

息子のその後・・・。

大癇癪を起こしたあの日から、あれほどの癇癪やパニックは起こっていません。小さな癇癪や、下手したら大癇癪に移行していくかもしれない事態は何度かありました。しかし、あの日から、私だけでなく、保育園の先生達も一丸となって、出来る限り環境を整えて下さったり、私に少しでも暴力行為が出そうになったら、息子を抱っこして気分を変えられそうな、落ち着ける場所へ移動してくれたり。沢山の大人な達による本気のチームプレーで何とか乗り切っています。私も頑張ってるし、先生達も協力してくれているし、そんな大人達の変化が息子にも影響したのか、息子も少しずつ変化している・・・感じがします。自分にも息子にも先生達にも感謝です。

 

児童精神科受診

 ここ1ヶ月の息子の癇癪は、我が家の【緊急事態宣言】で、私1人の力ではどうにもならなかったので、来月だった息子の児童精神科受診日を早めてもらいました。そこで、最近の息子の様子を話し、薬の種類や量を変更してもらいました。小学生に向けて、癇癪を減らして落ち着いて生活を営めるベースを作っていきたいですね。というのが、先生と私の共通認識です。音や人混みなど様々な周囲の刺激量が調整出来て、気持ちのベースを落ち着かせて、本来持っている息子の良さが、持ち味が、どんどん発揮されるといいなと思います。

 

次回の受診まで2週間、息子の様子を観察していきます。

ちなみに、お薬を飲み始めた初日、今日の事ですが、穏やかに落ち着いている時間が格段に増え、息子がニコニコ笑っている時間が増え、いつもより親子で会話したり、一緒に遊べる時間が増えました。興奮している時は、すぐに暴れてしまうから、会話も落ち着いて出来ないし、遊びも難しいのです。息子も楽しそうだし、私も楽しく息子に寄り添えました。

 

今日がたまたまだったのかもしれないし、

明日また大癇癪を起こすかもしれないし、

一喜一憂はしないよう構えていますが。

 

とりあえず、今日1日は、はなまるでした!!

 

おしまい。

ブログというか記録。泣いた日。

私「最近ブログが書けないの。」

 

夫『なんで?書きたくないの?』

 

私「書きたいの。書きたいけど、なんだか文章が思い浮かばないの。」

 

文章が思いつかないので、今さっきしていた夫との会話をそのまま書いてみました。書き始めさえ決めて書き始めてしまえば、どうにか文章が思い浮かんでいくんじゃないかって思って。

 

・・・・・・。

 

だめだ。文章が止まった。作戦失敗です(笑)

最近あった事。文章じゃなく、箇条書きで。

こんな日もあったね。といつか笑えるように。

記録です。

 

木曜日。保育園で息子、癇癪からのパニックになる(息子が、自分が作ったブロックに触ったお友達の顔を叩いてしまい、私が怒った事が原因。)⇨ママなんて嫌いだ!と髪を引っ張ったり頭をぶったり蹴ったり引っ掻いたり噛んだり。止まらなくなる。額に引っ掻き傷が出来る。⇨担任の先生が抱っこして私と引き離す。⇨興奮がおさまらないので抱っこされたまま園長室へ避難。⇨私が近づくと、余計興奮して、今度は先生の髪をひっぱったり、腕に噛みつこうとしたりする⇨男手である園長先生が、女の先生を守るため、息子を先生から引き離し抱っこする。

 

泣きながら暴れる息子の姿に、どんな苦しさなのだろうと心がはちきれそうになる。我が子が他人に暴力行為をしているという事実が苦しくて、先生の綺麗な髪を思いっきり引っ張ったり、叩いたりして、先生も痛いだろうと、息子が他害行為を働く全ての方へ心から申し訳なくなる。母親なのにこの場をどうしよも出来ない自分に苦しくなる。⇨そしたら瞬間、涙が溢れて止まらなくなった。人前で泣いてしまった。ボロ泣き。

 

私の様子に気づいた園長先生が、息子を抱っこしたまま、その場を離れてくれた。⇨ 担任の先生が、私を椅子に座らせてくれた。⇨隣の事務室にいた方が私に麦茶を一杯持ってきてくれた。⇨担任の先生が、どうぞ。と麦茶を目の前に置いてくれて。「ママも辛いですよね。パパは帰ってくるの遅い?お家でパニックになった時はママ1人でどうしているんですか?相談にのってくれたり、話を聞いてくれる人はいますか?今、不安なこととか、大変な事とか、私で良かったら言ってください。職員みんな、お母さんの事心配していたんです。」と寄り添ってくれた。⇨先生と15分くらいお話する。⇨ 遠くから聞こえる息子の癇癪の声が収まってきた。私の涙もおさまり冷静さを取り戻す。⇨息子は園庭で園長先生に抱っこされながら、先生の肩に顔を埋めて寝てしまっていた。泣き疲れたのだろう。暴れ疲れたのだろう。脳も疲れたのだろう。⇨ 事務員さんが、「自転車園の前に持ってきちゃいなよ。そのまま乗せちゃえば・・」と助言してくれる。⇨園長先生に息子を任せ、駐輪場に自転車を取りに行き、園の前につける。⇨園長先生が、そこまで来てくれて、そっと寝ている息子を自転車に乗せようとしてくれた。⇨その瞬間、息子が目覚め、「嫌だ。ママ嫌だ。」とまたプチパニックを起こす。まだダメなのか・・・。⇨ 園長先生、息子を抱いたまま、背中をトントンしながら、「大丈夫になったら教えてね。」と優しく息子に言い、私から少し離れる。息子は、園長先生にじっとしがみついていて。もう暴れたりはしていない。保育園の閉園時間はとっくに過ぎていて、時間だけが過ぎていく。⇨ 事務員さんが、私に、「お家は近いの?」「あっ、すごく近いんだね。ちょっと待っててね。」と話しかけて来た。⇨園長先生に何やら耳打ちする事務員さん。⇨私のところへ戻って来て、「園長先生がこのまま抱っこでお家まで一緒に帰ってくれるって。」と。⇨えーー!?息子20㌔以上あるし、いくら男手だとはいえ、園長先生に、神社の神主さんに(保育園は神社に併設されている)、そこまでしてもらっていいのだろうか。⇨園長先生は無言で、我が家の方向へ歩き出す。⇨自転車を引きながら園長先生についていく私。⇨30mほど進んだところで、「ママ、セブンイレブン行きたい。」と息子が重い口を開いた。表情が変わっていた。穏やかに。⇨『いいよ。ママと一緒にお家に帰れる?』⇨息子は頷き、園長先生の腕の中から、ママに手を伸ばしてくる。「さっきはごめんなさい。」⇨『ママも怒ってごめんね。』⇨園長先生に丁寧にお礼を言い、息子を乗せた自転車を漕ぎ始める私。セブンにより、デザートを買い、家路に帰る。外はもう真っ暗。

 

家に帰って息子の話を聞く。「さっきは、僕のハートがちぎれて、頭の中もグシャってなったの。」と説明してくれた。そのあと、息子なりに私に気を使ったのでしょう。夕飯を食べながら、「ママの料理最高に美味しい」「もう感動するわ!」とただの味噌汁を絶賛してくれた。「もう美味しくてちぎれたハートが治った!」と。それは良かった。そう、頭の中が落ち着けば、優しい面白い男の子なのです。

 

さて、明日の朝礼では、きっと私が泣いた事が報告されるでしょう(笑)

 

翌日から、

先生たちが妙に皆優しく私に声をかけまくってくれる。ような気がした。こちらの意識し過ぎか?いや、いつも優しい先生達の笑顔が、いつもより更に優しさ3割増しなんだよな。きっと、私のことを心配したり、励ましたり、応援してくれているのだろう。私は恵まれている。周りに理解者がいて、支援があって。子育てに孤立せず、社会全体で子供を育ててもらうってこういう事なのかな・・・。息子を抱っこしながら、我が家へと歩き出す園長先生の後ろ姿を見ながらそう思った。今は自分の子育てだけで余裕がないけど、息子が大きくなって、いつか今よりも手が掛からなくなったら、私も何か社会に還元したいな。

 

翌日は、仕事を早退し早めに息子を迎えに行った。

2日連続で大癇癪を起こしちゃ本人も辛いだろうから。

予想通り、友達より早くママが迎えに来てくれた事に嬉しくて仕方がない表情をしていた。

その日は、穏やかだった。良かった。

 

仕事と育児の比率。

今日も悩む。

 

記録、おしまい。

2020年7月 誕生日

こんにちは。

 

先日、誕生日を迎え、34歳になりました!

今年も生きています。

 

去年誕生日のブログを書いてから1年。早かった。まさか、こんなに世の中が変わってしまうなんて思いませんでした。でも、変わらないものも、ありますね。

 

去年の日記⇨ 誕生日が来て思う事

 

最近は、ブログにも書いていましたが、子供の情緒が安定せず、子育てと、仕事と、体力との間で揺れ動いていました。

 

誕生日の前日

 

  朝、気持ち悪さと胸痛が出てしまい、病院を受診。心電図などは問題なく、過労とストレスでしょうとの診断。午後から出勤しようと思っていましたが、先生に止められました。

 

今日の患者さんごめんなさい。

健康じゃなくてごめんなさい。

次回のリハビリは今日の分まで還元できるように尽くします。

 

息子へ。

仕事を辞めれなくてごめんなさい。いつも、仕事で疲れていてごめんなさい。あなたに、全ての力を注げなくてごめんなさい。でも、どうにか解決策を考えるので、一緒に頑張ろう。

 

私の心臓へ。

無理をさせてごめんなさい。

 

そんな事を思った1日でした。

 

誕生日当日

 

翌日、体調が戻った私は仕事へ向かいました。その日の訪問は5件。疲労感が残る身体だったけど、集中していいリハビリが出来たと思います。最後の5件目のお宅で、リハビリを終え、その場でカルテを書いていると、

 

「○○さん、その胸の傷・・・、何か大きな手術でもしたの? 結構大きそうだよね。」

 

と、ユニホームから見えていた手術跡に気づいたその方が、私に話しかけてきました。10年以上この仕事をしていて、初めて患者さんから聞かれました。多分、気づいていたけど、気になっていたけど、聞けなかった人は沢山いると思います。

 

私は、

 「これですか?」

と胸の傷に手を当てながら、

「心臓の手術を何回かしているんです。」

と答えます。

 

真剣な表情で私の目を見つめてきたので、

「生まれつきの病気だったんです。それで、赤ちゃんの頃と、中学生の時と、手術をしました。」

「今はもう大丈夫ですよ。」

と説明を続けました。

 

「それは、あなたが、この仕事をしているのと関係があるの?」

とその方。

 

「はい。これが無かったら、今頃全然違う事をしているかもしれませんね。」

と、私。しばし、考え込むその方。

 

「そっか・・・。じゃあ、あなたが病気になってよかった。」

 

そう言った後に、我に返ったその方、病気になって良かったなんて変な事言ってごめんと謝ってくれました。理学療法士になった私と出会えて良かったという事を伝えたかったのだと。私はとても嬉しかった。体力や声や綺麗な身体や、(普通の人が持っている)様々なものと引き替えにして、得たもの。それは、目には見えないものだけど、多分私のアイデンティティーの多くを占めていて、それで人助けが出来ている事。健康じゃなくてごめんなさい。と前日弱気になっていたタイミングだから、尚更。その事に気づけて良かった。

 

いい誕生日プレゼントをもらいました。

手術の傷に関しても、中々ストレートに聞いてくれる人は少ないけど。こうやって、聞いてくれたら、説明できるし、聞いてくれるほうが私は嬉しいなと感じました。それにしても、辛いなら、疲れたなら、一旦仕事を辞めればいいのに、もう限界だ辞めてしまおうと思った日に限って、こんな風に感謝の気持ちを述べられたりすると、もう少し頑張ってみようと思うから、なかなか辞めれないんですよね。

 

体力との付き合いは一生続く・・・。

 

でも、ネバーギブアップですね。

ドントじゃなくて、ネバー。

しんどい時は、ちゃんとギブアップして休みましょう。

 

ここまで支えてくれた全ての方に感謝の気持ちをこめて・・。

誕生日ブログ、おしまい。