Sweet-pea’s diaryー大人になった先天性心疾患のブログー

大人になった先天性心疾患を持つ私が、あの頃(16~20歳頃)見つけたかったブログを書いています。どなたかの参考になりますように。PC版カテゴリのはじめにからご覧ください♬

過保護と必要保護⑥~小学生編 まとめ~

小学校の思い出を色々書いてきましたが、少しまとめてみたいと思います。

これは、私の場合なので、皆さんにどこまで当てはまるかは分かりません。

成長しようとするスピードは人それぞれです。私より早い人もいれば、遅い人もいる。

その子、その子の成長を見守り、焦らず、少しずつ芽生える自立心を、子供自身が持つ成長する力を、キャッチしてあげて欲しいなと思います。

そして、真面目な事ばかり書いていますが、

病気以外の、人生のあそびみたいな部分もとても大事だな。と最近思います。

 

小学校を振り返って 

 

○ 親主体の管理・保護から1歩踏み出す時期であった。

 

○ 自分で、自分が先天性心疾患だという事。激しい運動は出来ない。という事を簡単にだが、周囲の大人に説明出来るようになった。

 

○ 好奇心や、やりたい!という気持ちが芽生えた。

 

○ もしかしたら出来ないかもしれないけど、ちょっと無理してやってみたり、無理せずやらなかったり・・・という経験を繰り返す事で、自分の体力や自分の身体の事を知り、

〝無理をしない、疲れたら休む” の線引きを模索していた。

 

○ 病気である事や、その他事情により、〝しかっりしていなければいけない〟と思い込んでいた。

 

○ 母がしてくれた事。してほしかった事。

 

 病気のリスクの把握。

⬇︎

子供自身が成長しようとする力・自立心芽生え、みたいモノに気づく。

⬇︎

家族以外の他者の支援を信じる。

子供自身の力を信じる。

⬇︎

時に、保護の手をそっと緩め、外の世界へ背中を押してあげる。

 

※ それで、例え失敗したとしても、失敗から多くの事を学べる。

※家庭以外の場所(学校など)に、信頼出来る人を作っておくことも大事。

※時に、無理をし過ぎてないか、を気にしてあげてほしい。

頑張ろうとしている姿は笑顔で応援してほしい。

でも、辛い時や悩んだ時、他の人と比べて出来ない事が悔しい時、

そんな時は、落ち込んでもいいし、泣いたっていい、時に甘えてもいい。

という事を伝えあげてほしい。

そして、また、頑張ろうと歩き出したら、笑顔で背中を押して欲しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

過保護と必要保護⑤~小学生編その3~

つづきです。

前回まで思い返したエピソードも、箇条書きで載せておきます。

 

 

小学生

 

○入学式

○キャンプへの参加

 

○学校生活での配慮

 小学生時代は、病状も落ち着いていたし、他の子と同じ様な生活送っていました。

思い返すと、疲れやすい。というのは、ありましたが、当時はそんなに気にしていませんでした。大人と違って、疲れたらいくらでも休めますし、昼寝だって出来るので笑。

 

担任の先生以外には、保健室の先生が病気についてよく知ってくれていました。体調不良の際には、よく保健室で休ませてもらいました。母としても、学校では、保健室の先生が守ってくれる。という事は心強かったのではないでしょうか。

 

運動制限はありました。小学生時代は、どの範囲まで学校生活おくれるか、という内容の公式な書類があって、それを主治医に書いてもらって、毎年提出していました。私は、持久走と徒競走がやってはいけないという内容でした。あとは、疲れたら休む。無理はしない。

 

体育の授業は概ね普通に受けていました。相当な運動音痴でしたが笑。

(先天性心疾患と運動音痴については、いつか書きますね)

徒競走はNGでしたが、体育の授業の始めに、グランドを3周走る。みたいなのは、やっていました。矛盾していますね・・・。

おそらく、競争になると、全力疾走で必死になるし、自分のペースではないから、心臓への負担を考え禁止されていたのだと思います。

 

でも、疲れたら休む。という原則だったので、私はいつやめても怒られません。出来る範囲でやれば良かった。結局、負けず嫌い根性で、皆と同じ3周走ることが多かったです。でも、それ以上は走らなかった。子供ながらに、感覚的なもので、3周以上はやばい。と感じていたのです。

 

無理をしない。疲れたら休む。

この、一見簡単だけど、難しい原則。

子供ころから、こうやって、ちょっと無理をしてみたり、やってみたり、その経験の中で、その線引きを模索していったのかなと思います。

 

徒競走事件。

というものがありました。

小3くらいだったでしょうか。

その年の運動会で、自分の学年の徒競走の順番がまわって来ました。クラスメイト達は、お世話係である、高学年のお兄さんお姉さん達に連れられて、入場門へ移動します。

私は、参加出来ないので、自分の椅子に座って待っていました。

すると、ポツンと1人残っている私見つけた、6年生のお姉さんが、私の手をとり、一緒に行こうと、私を入場門に連れていきました。あまりに一瞬のことで、説明するタイミングを失った私は、気がつくと、列の先頭 (徒競走の1巡目) に並び、スタートラインに立っていました。

私の性格上、ここで先生に声をかける事も出来ました。でも、50メートル、今の私は走っても死にはしない。という事がどこかで分かっていたのと (普段の生活では、友達と遊んでいて走る場面はあったので) 、やってみたい。という好奇心とで、流れに身をまかせ、スタートの合図と共に駆け出しました。

ぼーっと眺めていた母は、いきなり私が走り始めたので、びっくり仰天したそうです。

幸い、私身体は無事で、ただ息がきれただけで何ともなかったので、この件で誰かが怒られる。という事はありませんでした。私も「お母さん、本当にびっくりしたよ」と言われただけで、怒られませんでした。そして、何とこの件がきっかけで、次の年から、徒競走への参加はOKという指示書に変わりました。

 

私の病気である、大動脈弓離断症は、私が生まれる2年前までは治療法が確立しておらず、助けられなかった病気だったそうです。当時の主治医からは、『この病気の未来はあなたが教えてくれる』という様な事を言われました。そんな事もあり、先生は、私の運動制限については慎重に、少し大げさすぎるくらいで考えてくれていました。それで良かったのだと感謝しています。

 

きっと、徒競走事件があるまでに、

お友達と遊んだり、キャンプ に行ったり、

少しずつ体力がついて、

 

少しずつ自分の身体はどこまで動かせるのか、

という事を感覚的に学んでいって、

 

徒競走を走る準備が出来たから、

徒競走事件という出来事が起こって、

 

自らの意思で走り出した。

 

そして、その成長する力をキャッチしてくれた、親や主治医の先生が、

外の世界に背中を押してくれてた。

 

そのように思います。

 

 

つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

過保護と必要保護④~小学生編その2~

今回は、途中でテーマから話がそれたり、その4まで来てしまい、なかなか結論まで辿りつかず、ぐだぐだしてしまっています。このテーマを書き始めた時に、

 

・過保護と必要保護の線引き

・親主体の保護から、自分主体となっていく過程

・病気に対する甘えなのか、自身の身体に必要な休息や対応なのかの線引き

 

この3点について書きたいと思いました。

でも、これって明確な定義や答えはないし、私の中でも今でさえ悩んでいる事で、

皆さんに、この答えはこうですよ。とキレイに簡潔にまとめる事が出来ませんでした。

なので、私のこれまでを振り返る事で、今、答えを探しています。

それは、正解ではなくて、現時点での私の答え。になるのかな。

なので、考えていく過程をブログに載せているようなもので、付き合わせてしまってる皆さん、申し訳ないです。読むのが面倒くさくなったら、いつか出来るであろう、『過保護と必要保護〜まとめ〜』 という記事だけ読んで下さい。そこまで辿りつけるように頑張ります笑。

 

さて、話しを前回の続きに戻します。

 

小学生

 

○ 子供会のキャンプ

  地域の子供文化センターが夏休みに主催するキャンプ。私はこれに、小4から小6まで、毎年参加していました。小4の時、学校で配布される子供文化センターからのお知らせに、キャンプの事が載っていて、自分から行きたい!と思い、母に相談しました。キャンプは2泊3日で、子供達とセンターの職員、お手伝いのボランティアの大人。のみで行きます。自分の身体より大きなリュックを背負って、電車と徒歩で、東京都あきる野市にあるキャンプ場に行きます。キャンプでは、川遊びや、火おこしから始める食事作り、キャンプファイヤーなどをして仲間と過ごします。

 

とにかく楽かったし、沢山の成長があったし、この時、私の気持ち尊重して参加させれくれて、本当に良かったと思います。思い返してみて大変だった事は、行き帰りに重い荷物を背負って歩く事、食事の買い出しにキャンプ場から近くのスーパーまで歩くのですが、これが子供にはすごく遠くて、皆についていくのに必死だった事。やはり体力面の事だったかな。でもこの頃は、皆も大変なんだと思っていたし、このちょっと大変なのがキャンプというものだと思っていた気がします。そして、こういう経験を通して、自分の限界とか、自分の体力、というもの学んいったのだと思います。

 

当時、母は、2つ返事でキャンプへの参加を承諾してくれました。その後、キャンプの両親向けの説明会で、センターの職員に直接私の身体の事を説明していました。この時、通称のっぽさん。と呼ばれていた、職員の中心的な方は、病気やハンデに対してとても理解がある方で、医師の許可があるならばと、快く受け入れてくださり、母に気をつける事など細かく質問していたのを覚えています。

 

 私があの時の母の立場だったら、快く息子を送り出せるだろうか・・・。

ムリかもしれない笑。

 

川で溺れるかもしれないし、途中で具合悪くなるかもしれない。

困った時に母である私がすぐに助けてあげられないし。

反対する理由はいくらでも見つかります。

 

あれっ、私って過保護!?

 

病気がなくても、親と離れて、他人と3日間過ごす。そこに子供送り出すのは少し勇気がいることかもしれません。

(でも3日間子育て休めると思うと、ちょっと行って欲しいです笑)

 

この時母は、

私がこのキャンプに参加するリスクを考え、

許容範囲であると判断し、

他者の支援を信じて、

私の自立信の芽生えみたいな力を信じて、

笑顔で送り出してくれたのだと思います。

 

必要保護のその手をそっとほどいて、背中を押してくれたのかな・・・。

 

 

つづく

 

 

 

 

過保護と必要保護③~小学生編~

つづき。

 

前回は幼稚園まで振り返ってみたので、今日は小学生時代を思い出してみようと思います。

 

 小学生 

 

○ まずは入学式。この頃は、簡単にですが、自分の病気の事を他人に説明出来るようになっていました。「生まれつき心臓の病気で赤ちゃん頃に手術をしました。激しい運動は出来ません」自分で言えたのはこんな台詞だったかと思います。特に、母に練習させられた訳でもなく、ある時から自然に言えるようになっていました。それだけ病気である事は特別な事ではなく、ごく自然に捉えていたのだ思います。覚えている微かな記憶を追ってみます。

 

入学式を終え、それぞれの教室に分かれ初めてのホームルーム。(小学生はホームルームなんて言わないか。)皆席に座って、先生の話を聞きます。教室の後ろには、ずらっとそれぞれの両親が横一列並んでいます。先生の話が終わると、その日はそれで解散。後ろにいたお母さん、お父さんの元へ子供達は駆け寄ります。その流れと逆行する様に、私の母は、私の元まで歩いて来て、私を連れて、教壇にいる先生の元へと進みます。病気の事を直接先生に説明して、どうぞよろしくお願いします。と挨拶する為です。母から、そうするように言われたのか、自らお姉さんぶって話し始めたのか、覚えていないのですが、先ほど書いた自分の病気の説明のセリフを、母より先に先生に話した事を覚えています。きっと事前にも、私の身体の事は学校側に伝えていたと思いますが、それを、どのタイミングで、どの様に伝えたのか、私は全く知りません。知らない内に守られていたのだと思います。

 

⇨この辺りから、自分の身体の事は大事な人(ここでは担任)に伝えた方が良い、周りの子とは違う少し特別な事。という認識が、ふわっとですが芽生え始めて来ていたのだと思います。割と無意識の領域で。先程も書きましたが、自分では特別な事として捉えなかったから。生まれた時から、この身体が、私の普通だったから。なので、今回のテーマに沿って考えるならば、親主体の必要保護から、1歩踏み出して、自分自身で自分を管理する。その1歩目だったのかもしれません。もしかしたら、母が私の自立を促して、自分1人でも周りに説明出来るように、働きかけていたのかもしれません。また、私は、3人兄弟の末っ子長女で、常に兄達に負けじと背伸びをして大人ぶっていたので、しっかりとした行動を自らしていたのかもしれません。きっと、その両方かも。

 

この時の担任は、後に母にこう伝えたそうです。

『この子は本当にしっかりしている。将来大物になる。』 と・・・。

ごめんなさい。これ自慢じゃないんです笑。案外、この言葉って深くて。

私の小学生時代は、確かに同世代の子供達よりしっかりしていたと思います。それは、いろいろ経験してきたから、少し内面の成熟が早かったのかもしれません。母が病気という事から私を守りつつも、それ以外では、普通の子と同じ様に育てくれた、からかもしれません。

 

あとは・・・、

生まれた時から、生きているだけで、周りから褒められる事が多かった。入院中、退院した時、体重が増えた時。両親、祖父母、親戚。周りの人から、あの◯っちゃんがこんなに大きくなって。と。

それで、私がしっかりすると、周りはもっと褒めてくれた。だから、しっかりしなきゃと思った。そう。子供ながらに少ししっかりしすぎていて、褒められると嬉しくて、弱音やわがままを言ったり、人前で泣いたり、子どもらしく自由に感情を表出する事は苦手だった。小学生の頃は困らないけど、後々、これが、私の色々な出来事に影響してきた気がします。

 

やばい。テーマからそれてしまいました。

 

小学生編、つづきます。

過保護と必要保護②~乳児・幼児期~

前回のつづきです。

 

過保護と必要保護の線引きって難しい。大人になるにつれて、必要保護の範囲は狭くなり、すこしずつ親の手から離れていく。そして、ある程度の年齢になると、親の判断のみでなく、自分で考えなければいけない。過保護なのか必要保護なのか。すなわち、病気に対する甘えなのか、自分の身体に必要な休息や対応なのか。けれど、その線引きは曖昧だし、答えもない。

 

こんな事を、前回の記事で書かせて頂きました。

 

 という事で、まずは自分がどうだったのか。少しずつ振り返ってみたいと思います。

 

 乳児期  

 

〇 生後数日で手術。その後退院し、自宅へと戻ります。体重が増え、体力がつく1歳辺りに、2度目の手術を控えていました。その間の約1年間は、病院受診以外の外出は禁止とされていたそうです。家の前で日光浴はさせてたけどね!と、母は笑って言っていましたが、兄2人もいるし、外出できない子がいるというのは、大変だったと思います。あの頃は、母親の付き添い入院という習慣がなかったのか、病院の方針なのか、分かりませんが、私の通う病院は基本子供のみの入院でした。『この子は1歳でまた入院をする。母と離れて過ごさなければいけない。』という思いから、母は抱き癖がつかないよう、私の事はあえて必要以上に抱っこしないようにしていたそうです。(抱っこのしすぎは抱き癖がつき良くない。と言われていた時代背景もあったと思います。)

 

⇒ この頃は、母から子供に行う、すべての行為は必要保護なんだと思います。これは 、病気のあるなしかかわらず、かもしれません。人間は1年早く産まれてくる未熟児。という表現があります。多くの生き物は、産まれてすぐに、自分の足で身体を支え、歩きます。人は、産まれてからしばらくは、自分の意思で移動することもできません。生後1年は養育者の助けがなければ生きていけない。なので、幼少期は母親の愛情をたっぷりたっぷりそそいで、甘やかして、“必要な保護”  をしてあげればいい。そう、思います。

 

それにしても、私の母は、この頃から娘の自立を考えていて、入院の時に母がいなくても泣かないように、抱っこを控えたというから、驚きです。私の事を真剣に考えたが故だと思います。なので先に書いておきますが、それをいまさらどうこう恨んだりはしていません(笑)。感謝することの方がはるかに多いので。

 

が、ここからが本音です・・・。

 

そんな小さい子の自立なんか促さないでいいから、たくさん抱っこしてほしかったよ!!笑。

 

大人になってから、私は、身近な人(まぁ、恋人や夫・・という事になりますが)に、割と甘えん坊です。。書いていて恥ずかしい限りですが、きちんと本当のことを書いておきますね。

 

よく、恋愛には、幼児期の満たされなかった思いや、親との関係性が反映される。なんて言いますが。わたしの、甘える癖は、幼児期にあまり抱っこしてもらえなかった事が、少なからず影響しているんではないかな、と思います。考えすぎかもしれません。でも、それを言い訳にさせてもらっています(笑)

 

恥ずかしくなってきたので、話を戻します。

 

 幼稚園  

 

生後すぐは、受け入れてくれる幼稚園が少ないかもしれない、と言われていたそうですが、兄達が通っていた幼稚園に、年中さんから、無事入園できることになりました。兄2人が通っていた事で、先生方と母の間でよい関係性が築けていたから、スムーズに入園させてくれたのかもしれません。一応、入園テスト。なるものは受けました。折り紙の色当てテストで、黄緑と黄色を間違えて答えたのは、今でも覚えています。入園できて良かった。大切なのは内面ですね。

 

幼稚園では、いつ、どのように、母が私の身体の事を、先生に伝えていたのかは知りません。でも、初めての集団生活で、たくさんの不安があった事と思います。きっと私の気づかないところで、母が動き、守られていたのだと思います。この頃は、風邪などをひいた時は、近所の小児科クリニックへ。(事前に手術した大学病院からの経過報告書などで、身体の事は話していました)大きい風邪をひいた時は、念のため大学病院へ行ったほうがいい。と、クリニックの先生が判断して下さる事もありました。

 

また、この頃は、悪い事をしたら、兄たちと同じように、鬼のような顔の母に怒られていた事を覚えています。その辺は容赦なかった母でした。

 

幼少期に覚えていることはこんな感じです。

 

 振り返ってみて思う事  

この頃は、存分に、子供を保護してあげて良い。

抱っこはしてあげてほしい(笑)。

手術や通院など、周りから見たら苦しいことも沢山経験させてしまうかもしれません。しかし、必要な時は普通に怒って良い。と思います。もちろん、人それぞれ状態が違うので一概には言えません。泣く事で酸素状態が悪くなる場合もあるかと思います。主治医の先生の話をよく聞き、リスクを把握してください。難しいですが。命を守ことが最優先。でも、案外こどもはたくましかったりするので、病気以外の事で、子供をしつける、怒る事に対して罪悪感はもたなくていいんじゃないかな。と思います。

 

 

つづく

 

 

 

 

 

 

 

過保護と必要保護 ①

私の病気が分かり、母が主治医の先生から言われた言葉をご紹介します。

 

「この子は保護が必要な子です。それは、甘やかしや、過保護ではなく、

 必要保護です」

 

過保護と必要保護。過剰すぎる保護と必要な保護。

 

小さい頃から病気の子は過保護に育てられてわがままな子が多いよね。と、どこかで誰かが言っていました。確かに、そういう人もいるかもしれません。けれど、病気がなくても、わがままな子もいれば、そうでない子もいる。ただ、それだけの事。そして、もう一つ言えば、わがままも一つの個性。それで、離れてしまう壊れてしまう人間関係もあるかもしれないけど、わがままだけど自分に素直に幸せに暮らしている人 とか、わがままだけど憎めない人。とか、、私の周りにもいます。

 

何が言いたいかというと、個人のパーソナリティーに対して、勝手にその原因を分析したり、他人がとやかく言うのは筋違い。なんじゃないかな。大人になったら、全部自分の責任。自分の性格が、自分に降りかかってきて、悩んだりして、自分が変わりたいと思ったら、変わればいい。そのままの自分でいても、それでいい。そう思います。

 

少し、題名と話しがそれました。

 

とは、言いつつ、親としては、日々子育てに悩み、出来るだけ幸せな人生を歩めるような子に育ってほしい と思います。自分の子育てが、過保護すぎやしなしか、厳しすぎやしないか。私自身も悩みます。子育てに答えはないから、余計に。でも、どんな希望を持っていても、親の思い通りに育つ子はいないので、あまり重荷に思わず、今子供の為にしたい事をしてあげていればいいのかな、とも思います。

あとは、子供自身が自ら成長する力を信じて・・・

 

でも、「必要保護」って良い言葉だと思います。

病気を持つ子供は、大人になるまでは、その身体と命を守ってあげなくてはいけない。

これは、過保護ではなく、必要保護なんですね。すごくしっくりくる言葉です。

 

 でも、病気や発達障害など、個性を持っている子供を育てるにあたって、過保護と必要保護の線引きって、とても悩むし、難しい問題だと思います。特に、成長するにつれ、その線引きは難しくなってくるのではないでしょうか。子供は成長していけば、自らの意思を持ち、好奇心や、探求心や、いろいろな思いで外にむかって飛び出していきます。でも、たくさんの人に支えられ、救われた命、普通の子以上に、大切に大切に育んできたであろう命が、新しい世界に、親の手を振り切って走り出そうとする時に、背中をおしてあげるのは、そうとうな勇気がいると思います。

 

そもそも、どこまでが必要な保護で、どこからが過保護かの線なんて目に見えないし。

 

そして、年齢を重ねるにつれ、本人自身も、

どこまでが(病気に対する)甘えで、

どこからが(病気を理由に)自分に優しくしてもいい事なのか。

という事で悩むと思います。

 

先天性心疾患の人は、小さい頃からその身体が当然なので、健康な状態が分からない。疲れやすいのは、ただ私のガッツがないから?それとも、体の体質的な問題?

どこまで病気を理由にしていいのか、これは必要な休息なのか、

私も未だに悩みます。

 

 

まずは、自分自身の事を振り返って、私の場合はどうだったのか、

書いていきたいと思います。そして、私が母になって思う事。

そんなことを書いていって、最後に何か感じる事があればいいなと思います。

 

今回は、思いのたけが強すぎてまとまらない(笑)。

読みにくくて申し訳ないです。

みなさまのお力で、どうぞかみ砕いて読んで下さい。

 

 

つづく

定期検診の思い出 まとめ

さて、定期検診の思い出ということで、3回に渡って書かせていただきました。

 

定期健診の思い出 ~小学生編~

定期検診の思い出〜小学生編part2〜

定期検診の思い出〜小学生編 part3〜

 

当時の気持ちを思い出しながら、回想形式で書いたので、読みづらかったことと思います。ただの日記のようなものに付き合って下さった皆様。ありがとうございます。

 

小学生の事なので、多少思い出に加工が入ってしまっているかもしれません。でも、私の思い出として心の中に残っている記憶は、こんな感じです。

 

この頃は、定期検診に対して、嫌な気持ちは全くありませんでした。だいたいが、

身体計測⇨診察⇨心電図⇨レントゲン

という流れで、時々、間に血液検査やエコー検査をしていました。小学6年生の時に、今後の方針を決めるためにカテーテル検査をしましたが、それまでは、大きな風邪などをひかない限り、1年に1回のペースで通院していました。

 

  この記事を書いていて、当時の気持ちを思い返してみました。すると、母と2人で通院していた頃が懐かしく、ほっこりするような、あたたかい気持ちになりました。注射が痛い。とかそれなりに嫌なこともあったかもしれないけど、その嫌な気持ちは覚えてないくらい、痛いとかそういうのは、その瞬間に感じただけの感情です。

 

日記では、最後の検査が終わるところ、までしか書きませんでしたが、実は私のお楽しみは、この後でした。

 

少し書かせて下さい。

 

全ての診察、検査が終わると、会計に診察券等を提出し、そこからお会計確定まで時間がかかるので、一旦院内のレストランに向かいます。

 

私の通院していた大学病院には、最上階にホテルのレストランが入っており、ファミレスなどとは違う、きちんとしたレストランです。

 

日記で何度か書きましたが、私は、ここのペスカトーレが大好きでした。ペスカトーレなんてお洒落な響きの食べ物、それこそ普段は食べないですし、他のレストランで仮にペスカトーレがあっても頼みません。でも、病院のレストランのペスカトーレは、トマトベースのスパゲッティに、アサリ、エビ、イカムール貝などの魚介類が、ゴロゴロとのっていて、、一口頬張ると、それは、それは、しあわせ〜〜な気持ちになります。母はよく、クラブハウスサンドウィッチを頼んでいました。大人になってから気づきましたが、サンドウィッチが一番お手頃な価格なんですよね。子供には、お洒落なパスタを食べさせてあげて、自分は節約のためにサンドウィッチにしてたのかな。。ありがとう、お母さん!!でも、クラブハウスサンドウィッチもなかなかな美味しさだったんですよ。食べやすいですし。実は、本当に好きで食べていたのかも⁉︎。真相はわかりません笑。

 

でも、診察・検査を終えて食べる、あのペスカトーレは、きっと私の中の特別だったのでしょう。近年、レストランが改装され、10年以上頼んできた思い出のペスカトーレが無くなりました。無くなったからこそ、思い出が美化されたのかもしれません笑。

 

そして、お腹いっぱいになった後に、母と一緒に、会計へ行き、お金を支払っているのを横で眺めつつ、病院を後にします。

 

更に、帰りがけ。体力が余っていれば、キディランド(サンリオやディズニーなどのキャラクターグッズが売っているお店)や、クレヨンハウス(絵本や木のおもちゃの専門店)により、1つだけ何かを買ってもらうという贅沢をさせてもらいました。クレヨンハウスでは、絵本でなく、木で作られた可愛いハンコを1つ選んで買ってもらうことが多かったです。通院の時にしか寄らないお店なので、少しずつ増えていくのが嬉しかったなぁ。

 

長くなってきました。

 

何を言いたいかというと、

 

◯こんなに小さい頃から、病院通いなんて、かわいそうだね。とか、大変だね。とか、言われる事もありました(きっと相手なりの心遣いで)。

しかし、私の中では、かわいそうで大変な思い出ではなく、小さい頃の、懐かしく幸せな1つのエピソードとして、記憶の中にあります。むしろ大切な良き思い出です。そう思えたのは、通院とお楽しみをセットにしてくれた母のおかげなのかもしれません。

 

◯ そして、母との通院は、将来大きくなって、1人で病院に通う、予行練習でもあったのかなと思います。受付から、各種診察や検査の流れ、お会計の仕方、どこにトイレがあって、どこに売店があるのか、など。母と一緒に自然と覚えていきました。高校生になる頃には、定期検診も1人で行っていたように思います。

その辺りは、またいつか書きますね。

 

では、この辺りで、定期検査の思い出〜小学生編〜 お終いにします。読んで下さって、ありがとうございました!