Sweet-pea’s diaryー大人になった先天性心疾患のブログー

大人になった先天性心疾患を持つ私が、あの頃(16~20歳頃)見つけたかったブログを書いています。どなたかの参考になりますように。PC版カテゴリのはじめにからご覧ください♬

過保護と必要保護③~小学生編~

つづき。

 

前回は幼稚園まで振り返ってみたので、今日は小学生時代を思い出してみようと思います。

 

 小学生 

 

○ まずは入学式。この頃は、簡単にですが、自分の病気の事を他人に説明出来るようになっていました。「生まれつき心臓の病気で赤ちゃん頃に手術をしました。激しい運動は出来ません」自分で言えたのはこんな台詞だったかと思います。特に、母に練習させられた訳でもなく、ある時から自然に言えるようになっていました。それだけ病気である事は特別な事ではなく、ごく自然に捉えていたのだ思います。覚えている微かな記憶を追ってみます。

 

入学式を終え、それぞれの教室に分かれ初めてのホームルーム。(小学生はホームルームなんて言わないか。)皆席に座って、先生の話を聞きます。教室の後ろには、ずらっとそれぞれの両親が横一列並んでいます。先生の話が終わると、その日はそれで解散。後ろにいたお母さん、お父さんの元へ子供達は駆け寄ります。その流れと逆行する様に、私の母は、私の元まで歩いて来て、私を連れて、教壇にいる先生の元へと進みます。病気の事を直接先生に説明して、どうぞよろしくお願いします。と挨拶する為です。母から、そうするように言われたのか、自らお姉さんぶって話し始めたのか、覚えていないのですが、先ほど書いた自分の病気の説明のセリフを、母より先に先生に話した事を覚えています。きっと事前にも、私の身体の事は学校側に伝えていたと思いますが、それを、どのタイミングで、どの様に伝えたのか、私は全く知りません。知らない内に守られていたのだと思います。

 

⇨この辺りから、自分の身体の事は大事な人(ここでは担任)に伝えた方が良い、周りの子とは違う少し特別な事。という認識が、ふわっとですが芽生え始めて来ていたのだと思います。割と無意識の領域で。先程も書きましたが、自分では特別な事として捉えなかったから。生まれた時から、この身体が、私の普通だったから。なので、今回のテーマに沿って考えるならば、親主体の必要保護から、1歩踏み出して、自分自身で自分を管理する。その1歩目だったのかもしれません。もしかしたら、母が私の自立を促して、自分1人でも周りに説明出来るように、働きかけていたのかもしれません。また、私は、3人兄弟の末っ子長女で、常に兄達に負けじと背伸びをして大人ぶっていたので、しっかりとした行動を自らしていたのかもしれません。きっと、その両方かも。

 

この時の担任は、後に母にこう伝えたそうです。

『この子は本当にしっかりしている。将来大物になる。』 と・・・。

ごめんなさい。これ自慢じゃないんです笑。案外、この言葉って深くて。

私の小学生時代は、確かに同世代の子供達よりしっかりしていたと思います。それは、いろいろ経験してきたから、少し内面の成熟が早かったのかもしれません。母が病気という事から私を守りつつも、それ以外では、普通の子と同じ様に育てくれた、からかもしれません。

 

あとは・・・、

生まれた時から、生きているだけで、周りから褒められる事が多かった。入院中、退院した時、体重が増えた時。両親、祖父母、親戚。周りの人から、あの◯っちゃんがこんなに大きくなって。と。

それで、私がしっかりすると、周りはもっと褒めてくれた。だから、しっかりしなきゃと思った。そう。子供ながらに少ししっかりしすぎていて、褒められると嬉しくて、弱音やわがままを言ったり、人前で泣いたり、子どもらしく自由に感情を表出する事は苦手だった。小学生の頃は困らないけど、後々、これが、私の色々な出来事に影響してきた気がします。

 

やばい。テーマからそれてしまいました。

 

小学生編、つづきます。