Sweet-pea’s diaryー大人になった先天性心疾患のブログー

大人になった先天性心疾患を持つ私が、あの頃(16~20歳頃)見つけたかったブログを書いています。どなたかの参考になりますように。PC版カテゴリのはじめにからご覧ください♬

過保護と必要保護⑤~小学生編その3~

つづきです。

前回まで思い返したエピソードも、箇条書きで載せておきます。

 

 

小学生

 

○入学式

○キャンプへの参加

 

○学校生活での配慮

 小学生時代は、病状も落ち着いていたし、他の子と同じ様な生活送っていました。

思い返すと、疲れやすい。というのは、ありましたが、当時はそんなに気にしていませんでした。大人と違って、疲れたらいくらでも休めますし、昼寝だって出来るので笑。

 

担任の先生以外には、保健室の先生が病気についてよく知ってくれていました。体調不良の際には、よく保健室で休ませてもらいました。母としても、学校では、保健室の先生が守ってくれる。という事は心強かったのではないでしょうか。

 

運動制限はありました。小学生時代は、どの範囲まで学校生活おくれるか、という内容の公式な書類があって、それを主治医に書いてもらって、毎年提出していました。私は、持久走と徒競走がやってはいけないという内容でした。あとは、疲れたら休む。無理はしない。

 

体育の授業は概ね普通に受けていました。相当な運動音痴でしたが笑。

(先天性心疾患と運動音痴については、いつか書きますね)

徒競走はNGでしたが、体育の授業の始めに、グランドを3周走る。みたいなのは、やっていました。矛盾していますね・・・。

おそらく、競争になると、全力疾走で必死になるし、自分のペースではないから、心臓への負担を考え禁止されていたのだと思います。

 

でも、疲れたら休む。という原則だったので、私はいつやめても怒られません。出来る範囲でやれば良かった。結局、負けず嫌い根性で、皆と同じ3周走ることが多かったです。でも、それ以上は走らなかった。子供ながらに、感覚的なもので、3周以上はやばい。と感じていたのです。

 

無理をしない。疲れたら休む。

この、一見簡単だけど、難しい原則。

子供ころから、こうやって、ちょっと無理をしてみたり、やってみたり、その経験の中で、その線引きを模索していったのかなと思います。

 

徒競走事件。

というものがありました。

小3くらいだったでしょうか。

その年の運動会で、自分の学年の徒競走の順番がまわって来ました。クラスメイト達は、お世話係である、高学年のお兄さんお姉さん達に連れられて、入場門へ移動します。

私は、参加出来ないので、自分の椅子に座って待っていました。

すると、ポツンと1人残っている私見つけた、6年生のお姉さんが、私の手をとり、一緒に行こうと、私を入場門に連れていきました。あまりに一瞬のことで、説明するタイミングを失った私は、気がつくと、列の先頭 (徒競走の1巡目) に並び、スタートラインに立っていました。

私の性格上、ここで先生に声をかける事も出来ました。でも、50メートル、今の私は走っても死にはしない。という事がどこかで分かっていたのと (普段の生活では、友達と遊んでいて走る場面はあったので) 、やってみたい。という好奇心とで、流れに身をまかせ、スタートの合図と共に駆け出しました。

ぼーっと眺めていた母は、いきなり私が走り始めたので、びっくり仰天したそうです。

幸い、私身体は無事で、ただ息がきれただけで何ともなかったので、この件で誰かが怒られる。という事はありませんでした。私も「お母さん、本当にびっくりしたよ」と言われただけで、怒られませんでした。そして、何とこの件がきっかけで、次の年から、徒競走への参加はOKという指示書に変わりました。

 

私の病気である、大動脈弓離断症は、私が生まれる2年前までは治療法が確立しておらず、助けられなかった病気だったそうです。当時の主治医からは、『この病気の未来はあなたが教えてくれる』という様な事を言われました。そんな事もあり、先生は、私の運動制限については慎重に、少し大げさすぎるくらいで考えてくれていました。それで良かったのだと感謝しています。

 

きっと、徒競走事件があるまでに、

お友達と遊んだり、キャンプ に行ったり、

少しずつ体力がついて、

 

少しずつ自分の身体はどこまで動かせるのか、

という事を感覚的に学んでいって、

 

徒競走を走る準備が出来たから、

徒競走事件という出来事が起こって、

 

自らの意思で走り出した。

 

そして、その成長する力をキャッチしてくれた、親や主治医の先生が、

外の世界に背中を押してくれてた。

 

そのように思います。

 

 

つづく