こんばんは。
『私の大切な思い出』の続きを書いていきます。
13歳の私と先生の出会いについては以前書きました。
今日はその後のお話。
大人になった私が先生と再会するお話です。
病院を退院後1、2年ほどは、年賀状のやり取りをしていました。
先生とのつながりは、時間と共に自然に途絶え、
そのうち、病院のホームページからも先生の名前は消えてしまいました。
理学療法士の学校を受験しようと決めた高校時代、
先生の顔が頭に思い浮かびましたが、所在も分からないので連絡は取れません。
ただ、いつか必ず再会して、あの時のお礼と、あの経験がキッカケで将来の夢が決まった事を伝えたい。という思いはずっと強くあって。思い続けていれば、いつか絶対に再会できる。と心の何処かで信じていました。
理学療法士として働き始めて3年目くらいだったでしょうか。
12月のある日の私の日記です。
2011.12.16
今日はすごく感動する事があった。
10年以上前から、いつかお礼を言いたいと思い続けていた人と連絡がとれた。
中学の入院、手術の際、毎日多分一番支えになってくれた人。
私の事も鮮明に覚えていてくれて、日本に帰国した際は会えるといいね。
と言ってくれた。今年初めてのうれし泣きだ。
先生の所在が分かったのは、ある日突然でした。
ふと、思い立ち、当時流行り始めていたFacebookの検索欄に、先生の名前を書いてみました。すると、意図もあっさり、先生を見つける事が出来たのです。
先生は、奥様と一緒に海外でご活躍されていました。
この日の夜はFacebookの創設者である、マイケルザッカバーグさんに本気で感謝しました(笑)。Facebookというものが無ければ、もしかしたら、まだ再会できていないかもしれないから・・・。
先生を見つけた私は、
FacebookのMessengerを通して、メールを送りました。
私の中ではとてもお世話になった忘れられない先生だけど、
先生にとっては数多くの患者さんの内の1人だろうし、
あれから10年も経っているし、
その後も多くの患者さんを診て来ただろうし。
私の事覚えてくれているかな?という思いもあったので、思い出してもらえるように、丁寧に、当時の自分の病歴を書きました。
そして、入院中に毎日顔を出してくれたり、CDを貸してくれたり、あの時の私は先生に支えられていて、先生の優しさをずっと覚えていて、ずっと感謝していた事。
そんな事を、10年越しになってしまいましたが、先生に伝えました。
もちろん、理学療法士になった事も伝えました。
翌日、先生からの返信が届きました。
病歴を書いてもらうまでもなく、〇〇さん(〇っちゃんでいいでしょうか。)の事はよーく覚えています。
という書き出しから始まって、
私と先生しか知らない入院中のたわいもないエピソード。
当時は1年目の研修医で、自分ひとりでは何も出来なかったので、
こまめに顔を出すくらいしかしてあげられることがなかったという事。
でも、それを今になっても覚えてくれていて、
感謝してくれているという事に感激した事。
そして、
たぶん最初は気軽な入院だったはずが、結局大手術になってしまって、
力が及ばず申し訳ないという思いで当時はいっぱいだった。
今もその思いは変わらない。
とも書かれていました。
確かに、最初の手術が成功していたら、
身体に傷が増える事もなかったし、ICUで苦しい思いもしなくてよかった。
何より、大切な声を失わなくてよかった。
そこから、日常生活を取り戻すまで、声が自由に操れるようになるまで、
約10年。
こんなに沢山の困難に直面する事は無かったかもしれない。
でも、
先生達はいつもまっすぐに私と私の心臓に向き合って、
解決策を考え続けてくれて。
それは分かっていたから、病院を責める気なんて少しも無かった。
だからこそ、どこにも怒りや悲しみの感情をぶつけられずに、
それまで、過ごしていたけど。
それを、まさか、
一番私が感謝していた先生が、
主治医でも、執刀医でもない、
(そんなに責任を感じなくても良かったであろう立場の)先生から、
力が及ばず申し訳ない気持ちでいっぱいだ。
と言われるなんて。
うまく表現できませんが、色んな衝撃が私の中に溢れました。
医療者といえど全ての病気をすんなりと治せる神様では無い事。
得に、先天性心疾患の治療は、個々によって色々な心奇形が合併していて個別性が高い事。赤ちゃんの命を救う医療から、大人に成長するまでを支える成育医療に移行して来た、最初の頃で。大人になっていく症例がまだ少なかった時代に、試行錯誤して私の心臓を守ってくれた事。
大変なのは、患者本人と家族だけだと思いがちだけど、医療者である医師もまた、責任感や色々なものを背負って私達と向き合ってくれている事。時に、順調に治療できなかった患者さんに対しての思いを、ずっと心のどこかに持ち続けてくれている。その痛みと責任感や使命感の高さ。
先生の文章から、そんな事を感じました。
そして、改めて、担当医として私と私の病気にしっかりと向き合って下さっていたんだな。と思いました。
先生からの返信の最後には、こう書かれていました。
そろそろ帰国を考えています。
ひょっとしたら、研修医の頃にお世話になった病院に戻るかもしれません。
お会い出来れば嬉しいですね。
「あぁ、本当に再会出来るんだ。」
と胸がいっぱいになりました。
10年ぶりに連絡がとれたと思ったら、
なんと日本にもうすぐ帰国するというタイミング。
それも、私の通院している病院に戻ってくるなんて。
ずっと願い続けている事がかなう時って、
とんとん拍子にいい方向に進む事もあるんだな。
願い続けていて良かったな。
もしかしたら、願い続けていたから、それが叶った・・・のかも。
なんて、思いました。
先生と再び連絡がとれたのが12月。
翌年の4月には、帰国されて、再び病院に戻って来て。
私が定期健診で通院した6月。
先生は、自分のPHSの番号を教えてくれて、
外来が終わったら電話して下さい。一緒にお昼を食べましょう。
と言って下さって。
13歳の時以来の再会が果たせました。
白衣を脱いだ先生と、病院から少し離れた、小さなフレンチのお店で、
お昼ご飯を一緒に食べました。
最高に嬉しい再会の日でした。
先生は、もう私の外来で通っている科の所属の医師では無かったので、
厳密にはもう、担当医と患者の関係ではないから、、、
病院の外で会う事も・・・、いいですよね。(笑)
基本的には、医療者は担当する患者さんとプライベートで会う事はあまりよくないとされていますので、念のため。書いておきました。
言い訳で~~す。
その後、先生に、
実は体力と仕事と心のバランスが上手く取れずに休職した事を話した時にも、
アドバイスや、僕で良かったらいつでも話聞きます。と言ってくれたり。
(その時先生から頂いたアドバイスはこちらの記事に書いてあります)
その後は、先生も忙しくなり、定期健診の際に会える事も無かったけど、
私が出産した時は、産んだ翌日、病棟に大きなお花と共に会いに来てくれたり。
産後数日後の私の顔色やいくつかの症状から、私が貧血である事を、当時の担当医より先に気づいてくれたり。そんな感じで、出産の入院1週間の間も当時と同じように陰から支えてくれました。
その後、先生は病院を移られた為、
病院で偶然会う事ももうありませんが、
お互いの誕生日だったり、日常の些細の時だったり、
年に数回、メールし合う、そんな関係です。
私の大切な思い出。
今は思い出じゃなくなって、
私の大切なつながり。
おしまい。