Sweet-pea’s diaryー大人になった先天性心疾患のブログー

大人になった先天性心疾患を持つ私が、あの頃(16~20歳頃)見つけたかったブログを書いています。どなたかの参考になりますように。PC版カテゴリのはじめにからご覧ください♬

過保護と必要保護⑩〜高校生編〜

こんにちは。

前回の記事は、SNSで感想をくれた方もいて、今までも何度かメッセージのやりとりをさせて頂く方もいて、だんだんと、どんな方達がこのブログを読んでくれているのか、頭に浮かぶようになりました。なので、今日は〝こんにちは〟で書き始めてみました。

 

さて、中学の思い出もだいぶ書かせて頂いたので、今日から高校生編です。

 

ここまで来ると、日常の管理や通院などは、ほぼ自分でしていたように思います。親主体の管理から、子供主体の管理へ、ほぼ完全に移行したのが高校生くらいだったと思います。もちろん、私の知らない所で、影ながら支えてくれていたのかもしれませんが・・・。

 

いつも通り振り返っていきます。

 

 

○ 入学式

 私は、家から、電車に乗らずに通える公立高校に入学しました。最寄駅にあるバス停まで15分弱歩いて、そこからバスで5分。◯◯高校前で下車し、坂道を少し登ると校門にたどり着きます。バス通学は、わりと座れるし、雨とか関係ないし、体力的にも楽だったように思います。

入学式の日、髪の色はほんのちょっとだけ茶色く染めて、憧れのルーズソックスをはいて、母と家を出ました。

『入学式だけどいいの・・・?』とか、母がつぶやいてたのを覚えています。

 

小学生の入学式同様、教室で担任の挨拶が終わり、HRが解散すると、母が私の元に来て、一緒に先生の所に説明しにいこうと言いました。

 

私は、この時、明らかにに嫌な顔をして、

「いいから!恥ずかしいからやめて。」と、周りに聞こえないくらいの声で母に怒ったのを覚えています。仲良くなった友達が、この日のシーンを偶然見ていて、『あの子は怖いから距離置こうと思った笑。』と後から教えてくれました。そんな剣幕な表情をしていたみたいです笑。

 

結局は一緒に説明しに行ったのですが、

この頃から、思春期といいますか、親に管理されるのとか、親が心配してしてくれる行為が恥ずかしい、友達に見られたくない。という気持ちが出てきたように思います。

 

なので、担任や先生など、私に関わる人に、親が直接コンタクトして私の身体の説明をする。私と誰かの関係性に介入する。

のは、この高校の入学式が最後であったと思います。

 

○ 定期検診

  このくらいの時期から、病院への定期検査は1人で行っていました。毎週、小児の心臓外来は、水曜日。と決まっているので、その日は学校を休んで病院へ行きます。帰りによる店は、原宿のキディランドやクレヨンハウスから、竹下通り周辺に変わって行きました。

以前書いた病院のレストランは、高校生1人で入るには敷居が高いので、お昼はその時々で、気軽に入れるお店に入って食べていた気がします。

 

○ 部活動

高校では、吹奏楽部を続けずに、ラグビー部に入りました。

もちろん、マネージャーとして。

親はラグビー部という響きにたいそう驚いた事でしょう。

あれだけ、頑張って夢中になっていた吹奏楽部に入らなかったのには、2つ理由があります。

 

理由その1

自分の音色に限界を感じたから。

 

中学の吹奏楽部で私は、3年時に副部長になり、木管楽器のセクションリーダーとなりました。自分なりに頑張ったつもりです。自分の演奏の練習以外にも、パート練習やセクション練習をまとめるのが、私の役割で、顧問の先生が指揮を振る全体合奏の前に、いかに木管楽器パートの合奏をまとめておくか。そんな事を考えながら部活に取り組んでいました。おそらく、自分の音には限界を感じてしまっていたので、自分が出来る事を探していたんだと思います。

 

サックスパートにも、後輩達が何人か入って来て、中には譜面が読めない所から入部する人もいたので、音の出し方から、譜面の読み方から、私が昔先輩に教えてもらったように、少しずつ教えてあげました。

 

難しいリズムや、早い指使い、などは後輩に負けることはありませんでしたが、こないだ入ったばかりの人が、数か月の練習で、

パーーーーーん!

という、安定していて、しっかりとした、遠くまでつき抜けるような音を出した時、

 

“あぁ、わたしに出せない音が、こんなにも直ぐに出せるようになるんだ。”

 

と、自分の肺活量に限界を感じはじめていました。

 

そんな時、他の中学から移動して来た数学の先生が(先生は、学生時代ずっと吹奏楽部で、吹奏楽部では有名な某学校出身)、はじめて吹奏楽部をのぞきに来ました。

 

パート練習の最中で、演奏中の私のブレス(息継ぎ)を見て、

 

「え!?肺活量なさすぎ。」

 

と一言。

これは、なんというか、

ショック。

というより、

ショックを通り越して、

 

『あぁ、ここが私の限界なのかな。

片方の横隔膜だけでよく頑張った。

卒業するまであと少し頑張って、

高校になったらきっぱりやめよう。』

 

と冷静に静かに思った瞬間でした。

傷つきたくないから、感情的にならないよう冷静なふりをしただけかもしれません。

 

もちろん、先生は私の身体の事は知りません。

何の悪気もありません。

だからこそ、本当の事を言われた、といような、あの一言は私にとってすごく重みのある、3年間の努力も、あの時楽器を続けようと決意したその熱意も、一瞬で打ち砕かれてしまうような、そんな一言でした。

 

でも、この出来事から、

 

“たった一言の言葉の重み”

 

を学びました。

 

それは、今の生活においても、仕事においても役立っていると思います。

そして、その後も部活が大好きでしたし、合奏している時が何より楽しかったですし、音楽は、やっぱり素晴らしいと思います。

あれっ、高校生編なのに、中学生の思い出の話になっちゃいました笑。

話をもどして・・・、

 

理由その2!

 

運動部にあこがれていたから。

 

これも結構大きいです。運動部で活躍するクラスメイト達や、漫画やアニメで出てくる青春の世界。自分が出来ないからこそ、そこに強いあこがれを持っていました。

高校には、マネージャーという枠がある。

と知った時から、吹奏楽部か、運動部マネージャーになりたいな。

と思っていました。なので、吹奏楽部をきりすてる正当な理由が出来たことで、迷いなく、運動部のマネージャーに立候補することができました。

ある意味では良かったのかもしれません(笑)

 

ちなみに、なぜラグビー部にしたかというと、

思い描く青春の部活は、屋外のスポーツ。

でも、サッカー部や野球部はそもそも人気でマネージャー希望の人が殺到するし、サッカーや野球のルールなんて知らなかったし、プロ野球やJリーグも知らないし、そういうのは好きな人がたくさんいるから、私よりマネージャーに向いている人がたくさんいる。それならいっそ、高校生女子が誰も知らないようなスポーツに・・。

ということで、

ラグビー部に決めました。

 

ラグビー部マネージャーも、3年間きっちり続けてこれました。

 

マネージャーをやって良かったことは、

 

⇨夏の暑い日も、冬の寒い日も、グランドで選手たちを見守りサポートする

⇨単純に体力がつく。

⇨誰かの為に何かをする喜び。みたいなモノを味わえる。

⇨自分は絶対出来ないと思っていた事を味わえた。

汗水垂らして運動すること。運動を通して、チームで一丸となって試合に臨んだり、勝ったり負けたり、喜んだり悔しがったり、運動を通して自己を表現したり自分を解放すること。これらの事を、マネージャーという立場から、練習や試合を見守って、選手の目を通して、選手と同じような気持ちで、試合に勝つ負けるの、嬉しさ、悔しさを疑似体験し、むしろ、選手と一緒試合に出ているような気持ちになっていたこと。自分ではできなかった事を皆が私に味あわせてくれたこと。青春を感じれたこと。

 

こんな沢山の良かったことがありました。

選手の皆には感謝の気持ちしかありません。

おかげ様で、今は理学療法士という立場から運動に関わることができています。

 

人生何があるかは分からないです。

普通じゃなくても、制限があっても、今自分が持っているもので、出来る範囲でも、色々な経験が出来るし、色々な事を味わえる。

 

もしかしたら、吹奏楽部もあの時あきらめないで続けていたら、どこかで、

パーーーん!と、抜けるような音が出せるようになってたのかもしれないな。

 

と最近思います。

 

ドリカムの、

100回やってダメでも、

101回目は何か変わるかもしれない

 

 みたいな感じで。

 

 

今も悩んでいる事があるけれど、

なかなかすぐに出口はみつからないけど、

101回向き合ったら、何か変わるかもしれない。

 

と、自分へのエールで、締めくくりたいと思います。 

 

 

 

つづく。