Sweet-pea’s diaryー大人になった先天性心疾患のブログー

大人になった先天性心疾患を持つ私が、あの頃(16~20歳頃)見つけたかったブログを書いています。どなたかの参考になりますように。PC版カテゴリのはじめにからご覧ください♬

今の私

こんにちは。

前回のつづきです。

 

少し振り返ると、

元々、仕事と家事、育児の疲労が蓄積していたところに、ある出来事が起こり、心身のバランスを崩し、少しお仕事を休ませてもらう事になりました。最初は、その出来事について悩み、次に、復職後に仕事と子育てを両立出来るか、という所で悩み、最終的には、1人なると過去の大変だったエピソードが次々と思い出され、苦しくなった。

 

という流れでした。

 

休職するきっかけとなった出来事については、わりとすぐに解決したのに、それとは全く関係のない、過去のエピソードにとらわれて、その時苦しかった、本当は辛かった、わかってほしい。という感情が、近くにいる存在の夫に向かっていきました。

私は、最初、これを良くない事。

自分が悲劇のヒロインぶって、こんなに大変だったよアピールをするなんて、子供じみている。と思っていました。

 

でも、私の主治医は、今回のこの一連の事を、

良かった事なんだよ。

と言ってくれました。昔抑圧してしまった感情は、事あるごとに、表に出てくる。でも、そうやって、少しずつ発散させていくことが、昔の気持ちを少しずつ軽くしていく。

 

と言ってくれました。

 

そこから、週1回、通院し、先生に昔の事を思い出すままに聞いてもらっています。

 

それが、今の私です。

 

でも、当たり前ですが、今まで書いてきた事も私が本当に感じで来たことです。

 

過去の色々な出来事、そのものに関しては、これまでも書いてきましたが、1つ1つが糧となり今の自分にプラスになって繋がっていると思います。

 

病気になんてならなければ良かったか?

と聞かれたら、

いや…。と回答に戸惑うと思います。

 

確かに、体力のある身体で、手術の跡のないキレイな身体で、生まれた時のままの声を無意識に出せる声帯に戻れたら、それは魅力的です。憧れます。

 

でも、それは、もう私でないのです。

 

大変だった事も、無理して忘れる必要はなくて、全部含めて今の自分になっている。

(これは友達に言ってもらった言葉の引用です。友達、ありがとう!)

 

のだと思います。

 

ただ、過去の出来事自体は、今の自分を形成してくれた事、という理解があるのですが、

 

過去の感情を置き去りにしてしまった。

 

過去の感情とは、

辛いときに泣かなかった。つらいと言わなかった。痛いと言わなかった。しっかりしていなきゃと思った。弱音を吐くのは、支えてくれている家族や、周りの大人に失礼だと思っていた。大人に頼ろうとしなかった。

こんな感じかな。

 

もし、今の私が、

あの頃の私のそばにいたら、

 

点滴って痛いの?

そっかー、痛いんだね。

 

とか、

 

息苦しいの?

そっか、嫌になっちゃうよね。なんで自分だけって思っちゃうよね。

 

大丈夫。未来はどうとでもなる。

けど、今はつらいよねー。泣いてもいいよ。

 

って、言ってあげるかな。

 

ただ、そういう感情を抑圧する事で、自分を保っていたという側面もあると思います。

 

あの時に、全て出してしまってたら、もしかしたら日常がストップしてしまっていたかもしれない。私なりの、心が折れてしまわないような防衛だったのかもしれない。

 

とも思います。

 

何を言いたいのか、話がまとまらなくなってしまっていますが、あえて、きれいにまとめなくてもいいですか笑?

 

これを読んで、それぞれで何かを感じて頂ければ、とても嬉しく思います。

 

絶対にこうした方がいい。という正解は人生にはありません。だから、その時その時、目の前にある事を1つ1つ頑張ったり、時々休んだり、弱音を吐いたり、そうやって進んで行って、どこかでほつれが出てしまったら、その時周りに頼りながら、ほつれた部分を治していけば良いのかなと思います。

 

ちなみに、連休前から仕事は少しずつ復帰していて、連休後から本格的に復職です。

キツくなったら、弱音を吐きます❤︎

無理しない程度に頑張るとう、一番難しい事に挑戦してみます笑。

そしてまた、何か感じたり、気づいたりした事があったら、ここで書かせて下さい。

 

人生その繰り返し。

 

ですものね!

 

読んで下さってありがとうございます。

 

 

 

過去の感情

お久しぶりに更新です。

 

今日はここ最近のお話をします。

私は、このブログを書き始める少し前から、ある場所で過去に体験したエピソードについて、毎週聞いてもらっています。そこで感じた事をお話させて下さい。

 

きっかけは、子育てと仕事の両立で体力・精神的にも割とギリギリのところで頑張っていた時に起こった、ささいな?出来事でした。この出来事に関しては、病気とは全く関係のない夫婦間の問題なので詳細は省きますね。ご想像におまかせします。

 

その出来事が引き金となり、糸が切れるようにバランスを崩した私は、精神的にも身体的にも限界がきてしまい、診断書をもらいました。当初1か月の予定で休職する運びとなりました。

 

休職し始めの頃は、2~3週に1度のペースで通院していました。症状としては、不眠、倦怠感(だるい)、易疲労性(疲れやすい)、気分が下がる、マイナス思考になる・・等々だったと思います。お休みをもらう事で、日中、子供が保育園に行っている間は1人の時間を確保することが出来ました。身体の疲れが少しずつ癒えていく中、

 

自分に合うライフワークバランスはどのくらいなんだろう。体力的に無理なく働けて、最低限+αくらいの収入を得れるには?時短にしてもらう?家の近くで働く?など思いを巡らしていました。

(私の現在仕事は通勤が片道1時間と長く、週4回、9時ー17時勤務。平日の1日は療育センターに週1回通所する息子の同伴という感じです)

 

仕事と家事に、子育てというものが加わった今、

 

自分の体力と

子育てに注げるエネルギーの確保と

経済面を

 

天秤にかけて、働き方を見直すべきなのか。と悩んでいました。

 

そんな中、ある時を境に、過去の出来事を繰り返し思い出すようになりました。

手術が失敗したと分かった時の事、ICUでの苦しかった思い出、起きたら声が出なくなっていた事。などなど。一通り思い出しては、気分が悪くなっていました。あの時、抑圧して我慢していた感情が今になって表に出てきた。という感覚です。

でも、病気の事が全てではなくて、

病気の事4割、

病気とは関係ない、子供時代の家庭事情やその他色々・・6割。

といった感じでしょうか。

決して病気10割ではないです。

色々と、感情をセーブしてしまっていたのも、病気のエピソードだけの側面ではないと思うので、必ずしも、手術をうけた子供皆が、大人になってこうなる。という訳ではありません。なる人もいれば、ならない人もいる。と思います。

 

 

これを読んで、わが子の将来が心配になる親御さん、

不安をあおってしまっていたらごめんなさい。

 

最近、更新が止まっていたのは、今一番悩んでいる事を隠して、良い事ばかりを書いていてもだめだなと思って。どうしようか、ずっと悩んでいたのです。

 

過去の事で継続的に悩んでいる私を、ここに出す事は、このブログを読んで下さってる方の助けになるのか、今頑張っている子供達のプラスになるのか、ご両親や、大人になろうとしている子供達自身の、将来への不安を強化してしまわないだろうか。

 

でも、あの頃の私に伝えてあげたい。

 

無理しないでいいよって。

 

それと、例え無理したとしても、何歳からでも、人生の観方みたいなものは、変えられるから大丈夫だよって。

 

でも、それには、自分の感情と向き合わなくてはなりません。

家族を含む他人から見る自分や、こうあるべき自分、ではなく、

本来の自分が素直に感じる感情と。

 

そして、他者の支援を信じて、一緒に向き合ってくれる大人のサポートを得なければいけません。もちろん、信頼できる人と。

 

私は、子供の頃、それをあまりしてこなかったのです。自分はしっかりしていて、強くて、病気や環境に負けないぞって思っていて、1人でどうにか出来ると思っていて、色んな方に助けられた命だから周りの人に感謝して、病気を悲観的にとらえずに、前向きに笑って生きて、両親に私は大丈夫だよ!って見せていたかった。

 

だから、あの時の素直なネガティブな気持ちと向き合うのが、大分遅くなってしまいました。

 

でも、人生遅すぎる事はないというし、

今向き合う機会に恵まれて、

良かったとも思います。

 

なので、今、現在進行形で抱えている問題も書いていきたいと思います。

それが良い事なのかは分からないけど・・・。

 

P.S

この記事を読んで、不安になってしまった方、ごめんなさい。

良かったらこちらの記事も合わせて読んでみて下さい。

この身体に生まれてよかった事 ①

この身体に生まれて良かった事 ②

きれい事。かもしれないけど・・

 

 

 

つづきます。

過保護と必要保護⑩〜高校生編〜

こんにちは。

前回の記事は、SNSで感想をくれた方もいて、今までも何度かメッセージのやりとりをさせて頂く方もいて、だんだんと、どんな方達がこのブログを読んでくれているのか、頭に浮かぶようになりました。なので、今日は〝こんにちは〟で書き始めてみました。

 

さて、中学の思い出もだいぶ書かせて頂いたので、今日から高校生編です。

 

ここまで来ると、日常の管理や通院などは、ほぼ自分でしていたように思います。親主体の管理から、子供主体の管理へ、ほぼ完全に移行したのが高校生くらいだったと思います。もちろん、私の知らない所で、影ながら支えてくれていたのかもしれませんが・・・。

 

いつも通り振り返っていきます。

 

 

○ 入学式

 私は、家から、電車に乗らずに通える公立高校に入学しました。最寄駅にあるバス停まで15分弱歩いて、そこからバスで5分。◯◯高校前で下車し、坂道を少し登ると校門にたどり着きます。バス通学は、わりと座れるし、雨とか関係ないし、体力的にも楽だったように思います。

入学式の日、髪の色はほんのちょっとだけ茶色く染めて、憧れのルーズソックスをはいて、母と家を出ました。

『入学式だけどいいの・・・?』とか、母がつぶやいてたのを覚えています。

 

小学生の入学式同様、教室で担任の挨拶が終わり、HRが解散すると、母が私の元に来て、一緒に先生の所に説明しにいこうと言いました。

 

私は、この時、明らかにに嫌な顔をして、

「いいから!恥ずかしいからやめて。」と、周りに聞こえないくらいの声で母に怒ったのを覚えています。仲良くなった友達が、この日のシーンを偶然見ていて、『あの子は怖いから距離置こうと思った笑。』と後から教えてくれました。そんな剣幕な表情をしていたみたいです笑。

 

結局は一緒に説明しに行ったのですが、

この頃から、思春期といいますか、親に管理されるのとか、親が心配してしてくれる行為が恥ずかしい、友達に見られたくない。という気持ちが出てきたように思います。

 

なので、担任や先生など、私に関わる人に、親が直接コンタクトして私の身体の説明をする。私と誰かの関係性に介入する。

のは、この高校の入学式が最後であったと思います。

 

○ 定期検診

  このくらいの時期から、病院への定期検査は1人で行っていました。毎週、小児の心臓外来は、水曜日。と決まっているので、その日は学校を休んで病院へ行きます。帰りによる店は、原宿のキディランドやクレヨンハウスから、竹下通り周辺に変わって行きました。

以前書いた病院のレストランは、高校生1人で入るには敷居が高いので、お昼はその時々で、気軽に入れるお店に入って食べていた気がします。

 

○ 部活動

高校では、吹奏楽部を続けずに、ラグビー部に入りました。

もちろん、マネージャーとして。

親はラグビー部という響きにたいそう驚いた事でしょう。

あれだけ、頑張って夢中になっていた吹奏楽部に入らなかったのには、2つ理由があります。

 

理由その1

自分の音色に限界を感じたから。

 

中学の吹奏楽部で私は、3年時に副部長になり、木管楽器のセクションリーダーとなりました。自分なりに頑張ったつもりです。自分の演奏の練習以外にも、パート練習やセクション練習をまとめるのが、私の役割で、顧問の先生が指揮を振る全体合奏の前に、いかに木管楽器パートの合奏をまとめておくか。そんな事を考えながら部活に取り組んでいました。おそらく、自分の音には限界を感じてしまっていたので、自分が出来る事を探していたんだと思います。

 

サックスパートにも、後輩達が何人か入って来て、中には譜面が読めない所から入部する人もいたので、音の出し方から、譜面の読み方から、私が昔先輩に教えてもらったように、少しずつ教えてあげました。

 

難しいリズムや、早い指使い、などは後輩に負けることはありませんでしたが、こないだ入ったばかりの人が、数か月の練習で、

パーーーーーん!

という、安定していて、しっかりとした、遠くまでつき抜けるような音を出した時、

 

“あぁ、わたしに出せない音が、こんなにも直ぐに出せるようになるんだ。”

 

と、自分の肺活量に限界を感じはじめていました。

 

そんな時、他の中学から移動して来た数学の先生が(先生は、学生時代ずっと吹奏楽部で、吹奏楽部では有名な某学校出身)、はじめて吹奏楽部をのぞきに来ました。

 

パート練習の最中で、演奏中の私のブレス(息継ぎ)を見て、

 

「え!?肺活量なさすぎ。」

 

と一言。

これは、なんというか、

ショック。

というより、

ショックを通り越して、

 

『あぁ、ここが私の限界なのかな。

片方の横隔膜だけでよく頑張った。

卒業するまであと少し頑張って、

高校になったらきっぱりやめよう。』

 

と冷静に静かに思った瞬間でした。

傷つきたくないから、感情的にならないよう冷静なふりをしただけかもしれません。

 

もちろん、先生は私の身体の事は知りません。

何の悪気もありません。

だからこそ、本当の事を言われた、といような、あの一言は私にとってすごく重みのある、3年間の努力も、あの時楽器を続けようと決意したその熱意も、一瞬で打ち砕かれてしまうような、そんな一言でした。

 

でも、この出来事から、

 

“たった一言の言葉の重み”

 

を学びました。

 

それは、今の生活においても、仕事においても役立っていると思います。

そして、その後も部活が大好きでしたし、合奏している時が何より楽しかったですし、音楽は、やっぱり素晴らしいと思います。

あれっ、高校生編なのに、中学生の思い出の話になっちゃいました笑。

話をもどして・・・、

 

理由その2!

 

運動部にあこがれていたから。

 

これも結構大きいです。運動部で活躍するクラスメイト達や、漫画やアニメで出てくる青春の世界。自分が出来ないからこそ、そこに強いあこがれを持っていました。

高校には、マネージャーという枠がある。

と知った時から、吹奏楽部か、運動部マネージャーになりたいな。

と思っていました。なので、吹奏楽部をきりすてる正当な理由が出来たことで、迷いなく、運動部のマネージャーに立候補することができました。

ある意味では良かったのかもしれません(笑)

 

ちなみに、なぜラグビー部にしたかというと、

思い描く青春の部活は、屋外のスポーツ。

でも、サッカー部や野球部はそもそも人気でマネージャー希望の人が殺到するし、サッカーや野球のルールなんて知らなかったし、プロ野球やJリーグも知らないし、そういうのは好きな人がたくさんいるから、私よりマネージャーに向いている人がたくさんいる。それならいっそ、高校生女子が誰も知らないようなスポーツに・・。

ということで、

ラグビー部に決めました。

 

ラグビー部マネージャーも、3年間きっちり続けてこれました。

 

マネージャーをやって良かったことは、

 

⇨夏の暑い日も、冬の寒い日も、グランドで選手たちを見守りサポートする

⇨単純に体力がつく。

⇨誰かの為に何かをする喜び。みたいなモノを味わえる。

⇨自分は絶対出来ないと思っていた事を味わえた。

汗水垂らして運動すること。運動を通して、チームで一丸となって試合に臨んだり、勝ったり負けたり、喜んだり悔しがったり、運動を通して自己を表現したり自分を解放すること。これらの事を、マネージャーという立場から、練習や試合を見守って、選手の目を通して、選手と同じような気持ちで、試合に勝つ負けるの、嬉しさ、悔しさを疑似体験し、むしろ、選手と一緒試合に出ているような気持ちになっていたこと。自分ではできなかった事を皆が私に味あわせてくれたこと。青春を感じれたこと。

 

こんな沢山の良かったことがありました。

選手の皆には感謝の気持ちしかありません。

おかげ様で、今は理学療法士という立場から運動に関わることができています。

 

人生何があるかは分からないです。

普通じゃなくても、制限があっても、今自分が持っているもので、出来る範囲でも、色々な経験が出来るし、色々な事を味わえる。

 

もしかしたら、吹奏楽部もあの時あきらめないで続けていたら、どこかで、

パーーーん!と、抜けるような音が出せるようになってたのかもしれないな。

 

と最近思います。

 

ドリカムの、

100回やってダメでも、

101回目は何か変わるかもしれない

 

 みたいな感じで。

 

 

今も悩んでいる事があるけれど、

なかなかすぐに出口はみつからないけど、

101回向き合ったら、何か変わるかもしれない。

 

と、自分へのエールで、締めくくりたいと思います。 

 

 

 

つづく。

過保護と必要保護⑨〜中学再編その3〜

今日は、病院を退院してからの、学校生活を振り返って行きます。

 

◯ 携帯電話

 

退院してまもなく、母に携帯電話を買ってもらいました。

具合が悪くなった時、学校から帰る坂道を登るのがしんどい時、いつでも母に連絡が取れるように。

当時の校則では、学校に携帯電話持ち込み不可だったので、学校では鞄から出さない約束です。

また、手術の合併症で、小さい声しか出せない私を心配して、ホイッスルみたいなものも、待たされていました。私は、恥ずかしいから要らないよと言ったのですが、地震が来て瓦礫にうもれた時や、変質者遭遇した時に、必要になる。と力説されました。

⇨当時は、心配しすぎ〜と思っていましたが、母の立場で考えると、自分の目の届かない所で何かあったら心配だし、私と連絡が取れるという事で、母自身もまた、安心感を持って子供を見送れたのかなと思います。でも、早くから、携帯電話を持てたのは、嬉しいし、ラッキー!とも思っていました。

当時は、中学1年生で携帯を持っている子はクラスで片手で数えるくらいだった思います。

 

 

◯通学路

 

  私の家は学区の端っこであった為、中学までは歩いて30分ほど。行きも帰りも長めの坂道がありました。朝は、車で学校の近くまで送ってもらい、帰りは、半分くらい歩いて、最後の上り坂の手前で、母に電話をして、車で迎えに来てもらっていました。

母に車で送ってもらっている、という事は、当時の私には恥ずかしく、わざと遠回りをしてもらい、皆が通らない道を迂回し、学校の裏あたりで降ろしてもらっていました。クラスメイトとすれ違うのをとても嫌がっていたのを覚えています。

 それでも、毎朝送ってもらっていると、やはり気づく人はいて、◯◯ちゃんって毎日車で来るの〜とわざと大きな声で言ってくる人もいました。今思うと、『手術した後だから体力が無くて送り迎えしてもらってるの。』と堂々と言えば良かったですね。

でも、当時はそれが出来ず、焦りながらも、適当に理由をつけてごまかしていた様に思います。

 

 

吹奏楽

 

  入院前、私は吹奏楽部に入部していました。病院を退院する際、先生にその事を話すと、

『ん〜ちょっとしんどいと思うし上手く音出ないと思うし、無理しないでやめた方がいいかもねー。』

と言われました。

でも、元々音楽が好きでしたし、運動が出来ない私が熱中出来る大切な場所だったし、それをとったら、何が楽しくて学校に行くのか。という思いと、負けず嫌い精神に火がついて、先生に言われた瞬間から辞める気などさらさらありませんでした。

幸い、私の担当はサックスという木管楽器で、トランペット、トロンボーン、ホルンなどの金管楽器と比べたら肺活量は少なくても音がでる楽器です。やってみて、無理だったら、パーカッション(打楽器)に変わればいいやくらいに思って、時期を見て少しずつ部活にも参加していきました。

母も、それを止める事なく見守ってくれました。

吹奏楽部の思い出は色々あって、ここには全部書ききれません。いつか、他の記事で書いてみようかな。結果的に続けて良かったですし、3年間サックスを吹き続ける事が出来ました。私が、続けようと思ったのと、母がそれを止めなかったのは、先生のやめた方がいい。というアドバイスは、

〝医学的な所見から、楽器を吹く事が心臓に負担になる〟

という事ではなく、

〝体力も肺活量も無い中、続けるのは本人の負担になるし、肺活量が無いから思うように上達出来ないかもしれない。だったら、わざわざ可哀想な思いをさせなくても・・〟

というニュアンスだったと思います。

それならば、やっても良いって事だよね・・と判断した次第です。

 

その場で、私の音楽に対する熱意を先生に説明していたら、もしかしたら、意見が覆っていたかもしれません。なので、皆さんは、個人判断せずに、納得いくまで先生と話し合って下さいね。(私がやっていなかったのになんですが。)

 

◯体力テストの長距離走

 

学生の頃は、体力テストってありましたよね。私は運動オンチだったので大抵皆の記録に勝てないので大嫌いでした笑。

私の運動制限は、長距離がNGだったので、持久走と、シャトルランのみ不参加でした。私の中学では、体力テストの日が行事として特別に設けてありましたが、持久走は普通の体育の授業中で行っていました。

 

中学3年生の、持久走の記録をとる授業の時です。

いつもならば、自分からさらーっと抜けて、見学をしているのですが、

その時ふと、『短距離では誰にも勝てないけど、案外長距離だったら勝てたりして・・』

という思いが浮かんで来ました。

長距離では、メンタル面も大きく影響する気がしたし、

忍耐強さや、我慢強さ、みたいなものだったら、誰にも負けないと思っていました笑。

距離は、1000m。トラック1周が200mなので、トラック5周。

以前も書きましたが、体育の授業の準備運動などで、3周は走った事があったので、

プラス2周くらいなら・・とか、中学最後の体力テストだし。とか、色々理由をつけて、結局、しれーーっと皆の中に混ざって、スタートラインに立ちました。

 

スタートの合図の笛が鳴って、いっせいに走り出しました。先に走った男子達は見学です。長距離なんて初めてなので、ペースが分からず、どちらかというと、先頭集団に近い位置で走っていました。1周走り終わる所で、1人の男子が『○○ー、飛ばし過ぎるな、ペースを考えろーー!!』と声をかけてくれました。声をかけてくれたのは、小学校6年間同じクラスだった男子で、手術する前の私 (まだ元気な声が出せていて、活発で、病弱なイメージでは無かった頃の私 ) を知る数少ない男子で、私の初恋の人でもありました。6年間ずっと好きで、告白しないまま、中学に入ってすぐ入院して、退院したら、私の友達が彼の彼女になっていて、あっさり失恋したという甘酸っぱい思い出です笑。

なので、その声援がとても嬉しかったのを覚えています。

中学から一緒になった多くの人達は、“手術して、病弱で、声もほとんどでない、私”しか知らないので、私の本来の性質?性格?を覚えていてくれたような気がして、嬉しかったのです。

そんなこんなで、徐々に順位は落ちていきましたが、半分よりほんのちょっとだけ上くらいの順位でゴールをする事が出来ました。短距離では間違いなくビリの私からしたら快挙です。

走り終わったあとは、心臓バクバク、息はゼーゼー笑。2度とやらなくていいやと思いました。

 

⇨ 親の知らない所で、自分で判断して、無茶?をする事もある。というお話でした。

特に中学〜高校くらいの時期は、半分子供で半分大人。自立心も出てきて、このような事は少し多くなってくる時期かもしれません。命に関わるような、絶対にやってはいけない事があれば、しっかりと子供確認しておいた方がいいかもしれません。それ以外の所は、少し大目に見てあげてほしいな・・と思います。

 

過保護と必要保護⑧〜中学生編その2〜

前回に引き続き、中学生時代を振り返ってみます。

 

○入院中のエピソード

  ベッド上での生活が退屈になっていた頃、母にCDが聞きたいとお願いしました。『じゃあ、お父さんに買ってきてもらおうか』、と父に連絡する母。私と母が想像していたのは、円板状の持ち運び出来る、ポータブルCDプレイヤーです。今ではほとんど見かけませんね。MDが流行る前、外で音楽を聴くのにもっていたあれです。

(MDも知らない人いたらどうしよう笑)

 

父は、その日か翌日くらいに、すぐに買ってきてくれて、当時流行っていた、宇多田ヒカルの “FirstLove” のアルバムと一緒に届けてくれました。でも、父が買って来たのは、大きなCDラジカセ。家で普通に使うやつです。

『個室でもないのに大きいの置いていいの笑!?』

と母と笑ったの覚えています。

メタリックピンク色でとても可愛い女の子らしいラジカセで、

父が娘を喜ばせようと探してくれた気持ちが伝わり、すごく嬉しかったです。

他にも、小さなテディベアのぬいぐるみや、りぼん、なかよしなどの漫画、小説、などなど、入院が長引くにつれベッド周りが豊かになっていきました。

 

人工血管置換術を終えICUでの思い出。

人工呼吸器を外されて、最初の数日。私のサチュレーションは常に80%台で、とにかく息が苦しくて苦しくて、誰が面会にきても構う余裕もなく、意識が薄れる中、必死で息を吸う。という状態でした。そんな時、母は、ずっと隣に居てくれて、静かにうちわで私の頬をゆっくりゆっくりとあおぎ続けてくれました。苦しい状況のなか、その心地よい風が唯一の救いで、その風の感覚を今でも覚えています。

 

さて、真面目な思い出の後ですが、どうでもいい思い出を1つ書きますね。

 

父の漫画や小説の差し入れの話。

 父は漫画は全く読まない人で、多分表紙の絵とかで女の子っぽい本を選んで買って来ていたのだと思います。内容まで検閲していなかったのです。父が持ってきてくれた漫画の中には、たまにちょっとHな内容の漫画が紛れていて、私は小学校を卒業したばかりの真面目な女の子だったので、衝撃を受けました笑。この事は、未だに父は知らないと思います。小児科病棟の大部屋、比較的年齢が高い子供(中学から高校生)が集められる部屋にいたので、すぐに、お姉さん達にとられて、回し読みされていました。そして、夜、消灯後に、皆でその話題で盛り上がってなかなか寝ないものだから、看護師さんに怒らました。随分、お姉さん達にワルイ事を教えてもらった気がします。身体的に余裕があった時の、楽しい思い出です。私が、大人の心臓血管外科病棟に移された後も、そのお姉さんは、自分が退院する日に顔を見せてくれて、頑張れ。と応援してくれた優しいお姉さんです。皆さん、差し入れの本の内容は確認しましょう。

 

振り返って思うこと

 

入院は苦しくてつらい事が多いです。

 

しかし、その中で与えられる、両親や、看護師さんや、先生や、清掃のおばさんなど、様々な人から受けた優しい行為、優しい言葉かけは今でもよく覚えています。

 

沢山の方の愛情に守られて乗り越えていけたんだと思います。

 

大人になってから、当時の事を思い出した時、大抵辛かった思い出から先に思い出すのですが、その後に、こういったあたたかい思い出や、くすっと笑えるエピソードが、出てきてくれる。これって結構救われます。

 

人生大変な事もあるけど、大変な最中でも、ささいな事やくだらない事で、ほっこりしたり、笑えたりする瞬間がある。一瞬でもそういう気持ちになれるということは、どんなに大変な時期でも幸せだなと私は思います。

 

 

 

過保護と必要保護⑦〜中学生編〜

少し間が空きましたが、続きです。

今日は、中学校時代を振り返ってみたいと思います。

以前にも書きましたが、中学1年の夏に、心臓の再手術を受けました。中学時代は、その手術からいかに日常生活取り戻すか。という時期でした。

 

少しずつ振り返っていくので、お付き合い下さい。

 

〇 中学入学前のカテーテル検査

 

 小学校を卒業してすぐ、1週間の入院でカテーテル検査をしました。

入院前に、父とインターネットで、カテーテル検査について一緒に調べたのを覚えています。

事前にどんな検査を受けるのか、自分で調べる ( 実際には、父がやってくれたのを隣で見てたのかもしれませんが ) 、という行為は、自分の病気と向き合う。という事でもあったのかもしれません。

私の事前知識としては、痛いのは、点滴の注射と、鼠径部に局所麻酔の注射を打つ時。これさえ我慢すれば、大丈夫。といった感じで当日を迎えた気がします。

 

〇 再手術が必要であるという事を母から知らされる。

 

場所は、いつもよりちょっといい喫茶店でした。窓側の席に座り、外の通りを歩く人達を横目に、母が切り出したのを覚えています。

『 小さい頃にいれた人工血管が、狭くなってきている。これを治すために、手術をしなければいけない。これは、小さい頃から決まっていた事で、今その時期が来た 』

というような事を、丁寧に、そして簡潔に話してくれました。

私は、「そうなんだ。分かった。」と すっと、母が言っている事を理解し受け入れたと思います。

いつもと違う場所で、母が真剣な表情で、かつ私を気遣いながら、まっすぐな気持ちで話してくれたので、母の気持ちがすぐに分かったし、私も真剣に理解して受け入れたのだと思います。

 

〇 入院時の手術の説明

入院後、手術の説明を執刀医から受けると思います。両親が説明を受けて、それを本人である子供に親の口から伝える。という場合や、本人が医師から直接聞く。など、色々な方法があると思います。また、どこまでの情報を伝えるのか。リスクなども全部聞かせるのか。など、色々考える事はありますね。

私は医師から直接、リスクも含め説明を受けました。

私が、机越しに、医師と対面になるように座り、両親は一歩下がった後ろから話を聞いていました。先生も、両親に話すのではなく、直接私に説明して下さいました。

 

中学1年という微妙な年齢でしたが、全くの子供ではない。自分の身体の事。本人が直接先生から説明を受ける。

という両親の方針だったのだと思います。

 

①バルーンカテーテルでの治療

②ステントグラフト留置術 

③人工血管再置換術

 

と、結果的に3つの手術をする事になりましたが、どんな理由でどんな手術をするのか。リスクは何なのか。なぜ途中の治療が失敗してしまったのか。という事は説明を受け、中学生なりにある程度は理解していたと思います。

 

しかし、心臓の手術のリスクは怖いものばかりです。それをすべて子供に伝えるのが正しいかというと、やはり、かなりの心的ストレスになるというのも事実です。その辺りの見極めは難しいですが、子供の負担になりすぎない様、考えてあげてほしいなと思います。

 

1点だけ、最後の人工血管再置換術の手術を受ける、前日の夜の事を書かせて下さい。

 

消灯前に1人の医師が、ベッドサイドに訪れ、

「明日の手術だけど、声を出す神経がからみついている場所で、それを切らないと手術できないのね。だから、手術後は、少し声が出にくくなるかもしれない。ハスキーボイスみたいな感じ。まぁ、オペラ歌手とかになりたいのでなかったら大丈夫だと思うよ」と突然、手術に対する大きな合併症の話をしてきました。

 

夜、大人の心臓血管外科病棟の為、周りには話せる友達もいない、両親も帰宅している状況で、超さらっと言われました。

 

その後の人生を大きく変える事になる重大な事を、このような形で知らされた事。これに関しては、伝え方が不適切であったと思います。でも、皆忙しい中、働いていて、人を相手にしていて、特に話し方だったり、説明の仕方だったり、配慮だったり、そういうのは、間違えてしまうこともあると思います。ここに書く事で、だれかの心に留まり、そういう配慮をより一層心がけてくれる人が増えたらうれしいな。

という話です笑。

 

 振り返って思う事

 

〇手術の説明に関して

両親は、リスクなどのマイナスな情報から私を守る(情報を隠す)、という事はせず、私に医師から直接説明を受けさせました。

この経験が、病気の理解にもつながり、以後、この時の状況は、親に聞かなくても自分で詳細を話せるようになりました。

赤ちゃんの時に受けた手術は、親が医師から説明を受け、それを年月がたってから教えてもらう為、詳細がいまいち把握しきれなかった事(産まれた時の記憶と記録 参照)と、対象的ですね。この点は良かったことです。

 

医師から直接説明を受ける。という事は、ある程度緊張感がある雰囲気での説明になる為、しっかりしなければいけない、というプレッシャーを、どこかで背負っていた様に思います。親から説明を受ければ、何それ。とか、嫌だなぁ。とか、弱音や愚痴も少しは吐き出せたかもしれません。この点はマイナス点でしょうか・・・。

 

ではどうすれば良かったのか。

 

分かりません。

 

どの方法をとっても、

『あの時こうされたから、こういう性格になった』

と、大人になっていく子供達は、考えたり、言ったりする時期があるんじゃないかな。

と思うのです。大人になってからも、ありますよね。そういう事。

 

私だったら、

あの時自立心を促されたせいで、しっかりはしたけど、周りに甘えられくなって苦しかった。とか。

しかし、その分、自分の病気の理解は深まった訳ですし、当時どんな状況で何をしていたかも理解できた。

 

もし、逆の対応をされていたら、

あの時、全部親から守られたせいで、1人では何も出来なくなった。手術のリスクなど大切な事を隠された。今でも本当は医師がどんな説明をしてどんな状況であったのか、自分の事なのに分からない。と思うかもしれない。

でも、余計な事で心が傷つかず、手術を乗り切る事ができる。

 

何が言いたいかと言うと、

先天性心疾患のご家族の方。

その子、その子の性格や、心のつよさ、成長の速度は個人差があると思います。

 

どこまで守ってあげるのか、

どの様に守ってあげるのか、

どこから自立を促すのか。

 

正解がない分、親御さんが判断しなければなりません。それを判断する、サインみたいなものは、子供が出しているかもしれないので、それはみつけてあげてほしいなと思います。

 

そして、

お子さんの事を思って、悩んで悩んで決めた選択ならば、それでいいのだと思います。子供は、あの時のせいで・・とか、言ったり考えたりする時期はあるかもしれません。でも、それって、どんな子もとおる普通の道で、そう言われたら、こんだけ悩んでこう思って決めたのよ。と説明してくれればいいのだと思います。

 

どうか、自分の判断や決断が、この子のを将来を決める。

 

という重い荷物につぶされないようにして下さい。

 

どんな環境や状況でも、子供は自分で成長する力を持っています。

大丈夫。

 

ただ、その手助けはしてほしい。

無理していないか、確認してほしい。

側でずっとみていてほしい。

頑張っている分、辛い時は無理せずに甘えていいと教えてあげてほしい。

 

その時の感情を、言葉にだして、その時に発散させてあげてほしい。

 

と思います。

 

つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

思いよ届け

こんにちは。

天気も良くなって気持ち良い土曜日ですね!

 

いつも、ブログを読んで下さっている皆様、時々感想くれる皆様、ありがとうございます。

 

ちょっと日常が立て込んでおりまして、更新が滞っています。中途半端な思いで無理やり書きたくないので、今週は、しっかりとした記事は、更新難しいかも…。

 

もし、余裕が出来きたら書きますね!

 

更新出来た時はお知らせするので、その時は、また、覗きにきて頂ければ嬉しいです。


さて、ゴールデンウィーク明けに、手術を控えているお子さん、ご家族の方。何人かいらっしゃると思います。

 

待機しているこの時間、色々な事を考え、不安になる事と思います。本当に、何も力になれないけど、上手くいく事を心から願っています。多分、SNSで、フォローし合っている同じ境遇の方々、それぞれが、皆の子供の手術の成功を祈っていると思います。

 

思いよ届け。

 

ではないですが、そういう皆の祈りみたいなものが、どこかに届いて、お子さん達の生命力に繋がりますように。

 

応援しています。

お母さん、お父さんもどうかご無理なさらずに。